司祭の言葉 6/22

キリストの聖体
ルカ9:11b-17

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音は、主イエスの「五つのパンと二匹の魚」の奇跡を伝えていました。教会は、主の「パンの奇跡」を、後に十字架の前夜、主が12使徒と「最後の晩餐」で祝われ、制定された「ご聖体の秘跡」・ミサの秘跡しるしとして大切にして参りました。

主イエスが、十字架の死を遂げられる直前の「最後の晩餐」で、「ご聖体の秘跡であるミサ」を制定された時のことを想う度に、一つの言葉が脳裏をよぎります。「一期一会」。これは千利休以来の日本の茶道の魂を語ることばとして大切にされて来ました。利休自身の言葉では、「一期に一度の会」あるいは、「一期一席」とも言われます。一椀のお茶を共に頂いた出会いは永遠であり、その出会いの内に人は永遠に生きる。このお茶に命の一切を懸ける。このお茶を頂いた後、死んでも悔いはない。

利休は、秀吉から賜った死の検分に遣わされた武士たちを招いての最後のお茶の直後に、死を遂げました。利休の後妻、養子も、彼の最愛の弟子大名高山右近もともにキリシタン。利休はその最期の時、「最後の晩餐」に続いて死を遂げられたキリストのことを思ったのではないでしょうか。「利休のお茶の起源は、カトリックのミサです」と、裏千家の前家元・千宗室師が、英語版のお茶の本で明言しておられました。事実、一つの椀から回し飲みをするのは、利休の濃茶とミサ以外にはありません。

「一期一会」。弟子たちとの「最後」の晩餐。それが「最後」であることは、十字架を前に、主イエスには、明確に自覚されていたはずです。弟子たちにもそれは、「最後の晩餐」に直続した主の十字架の死の後、明確にされました。「一期一会」。「わたしの記念として、これを行え」と、主が、わたしたちに残されたご聖体の秘跡。それは、否、これこそ「一期一会」の秘跡。人と人との出会いの永遠の秘義を教える利休のお茶をさえ越えて、神と人との出会いの永遠の秘義に目を開かせるのは、否、その永遠の秘義をわたしたちの身の事実とさせてくれるものこそ、ミサです。

「一期一会」。利休が、お茶としてわたしたちに残していったのは、彼自身です。彼との出会い。否、彼と出会いを越えて、人と人との出会いそのものの秘義です。「一期一会」。「最後の晩餐」、すなわちミサで、主イエスが、わたしたちに残されたのも、主ご自身。ただし、神なる主・キリストとの「一期一会」の出会いです。実に、神と人との出会い。そしてそれは、余りにもリアルです。ミサは、わたしたちに告げます。

「主イエスはすすんで受難に向かう前に、パンを取り、感謝をささげ、割って弟子に与えて仰せになりました。『皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡される、わたしのからだである。』 食事の終わりに同じように杯を取り、感謝をささげ、弟子に与えて仰せになりました。『皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である。これをわたしの記念として行いなさい。』 信仰の神秘。」

ミサの中で司祭を用いて主イエスが、みことばと行為によって聖別されたご聖体において、聖霊によりご復活の主ご自身が現存されます。数えきれない信者・殉教者たちが、ご聖体の内に現存されるご復活の主に彼らの生涯を託し、最後には彼らの命を捧げて唯一人たりとも裏切られたことの無い、これがカトリックの信仰です。

ご聖体において、主イエスとの「一期一会」の出会いの内にご復活の主のいのちを受けた聖アウグスティヌスは語ります。「キリストのご聖体を拝領する時、わたしたちは、主をわたしたちの体へと消化するのではありません。ご聖体を受けたわたしたちの方が、主によって消化されるのです。その時わたしたちの罪なる体が、キリストの栄光のからだへと変えられるのです。それゆえ、皆さんは、ご聖体によって、ただキリスト者とされるのではありません。キリストのからだとされるのです。」

わたしたちの内にまで来てくださって、「わたしたちの罪なる体を、キリストの栄光のからだに変えてくださる」ことがおできになるのは、ただ「聖霊」なる神お一人。そうであれば、ここで聖アウグスティヌスは、ミサで、わたしたちがご聖体としてお受けするのは、実は「聖霊」に他ならない、と明確に教えてくれているのです。「福音とご聖体において、活けるご復活の主キリストにお会いさせていただく」とベネディクト16世教皇はミサの秘義を教えてくださいました。しかも、わたしたちは既に、聖アウグスティヌスから、ご聖体においていただくのは、実は「聖霊」に他ならないと教えられていました。そして「聖霊」こそ、活けるご復活の主ご自身に他なりません。

ご聖体の祭日。ミサで、ご復活の主キリストが、ご聖体においてご自身をわたしたちにお与えくださる。ご聖体の内に働かれる「聖霊」は、わたしたちの内にまで来て、わたしたちを罪なる体から主のからだへと変えてくださる。わたしたちは、主のからだに変えられて神の国に「過ぎ越」させていただきます。これ程確実に神の国に帰らせていただく道はありません。わたしたちミサで祝うのは、ご聖体の主における神と人との「一期一会」の出会いの秘義、ご聖体の主との「過越の神秘」です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 2024/1月〜6月


春日部教会での感染症対策について

新型コロナの最新に状況に基づき、教区から新たな指針が発表されました。
これを受けて春日部教会では主日の対応を以下のように変更します。

1. 従来3グループに従分けていた参加規制を以下の2グループに変更します。
 これにより信者は2週間に1回(これまでは3週間に一回)主日のミサに参加できるようになります。

新Aグループ:越谷・大袋、せんげん台、武里、備後大枝
新Bグループ:一ノ割・牛島、粕壁、豊春・岩槻、庄和・野田、杉戸・幸手

2.この変更は来月8月から適用されます。(7月中は従来通り3分割です)
 新グループ分けによる主日のミサは8月7日からスタートします。(ミサ開始時刻は10時で変更ありません)
8月7日はBグループです。14日はAグループ、以下21日はBグループ、28日はAグループとなります。

3.会議や講座などの人数制限は今まで通り継続し、原則禁止です。
(ただし、神父の許可があれば可とします)

4.8月15日(月)の被昇天のミサ(ラテン語ミサ)は10時からで、全員参加可能です。

5.金曜日、土曜日のミサは従来通りで全員参加可能です。

ただし、7月8日(金)のミサは中止となります。

ミサ開始時刻は基本10時からで変更はありません

司祭の言葉 5/1

復活節第3主日 (ヨハネ21・1-19)

 世界平和のために祈りつつ今日のミサも捧げたいと思います。
 共にお祈りください。

 さて、ヨハネ福音書は本来20章(先週の福音)で終わっていたと考えられますので、21章は後に付け加えられた部分と考えられています。何故つけ加えられたのでしょうか、
 一つには、顕現は幻ではなく確かな事実だったことを強調するためだったと思われます。
 幻想でも、幻影でも、霊でもない。幻が実際に魚のいるところを、ほらほら右の方だ・・などと指示するだろうか、火を起こすだろうか、朝食の準備をするだろうか、という主張がここにあるのです。
 もう一つは、復活したイエス様と出会った弟子たちは、20章21節で「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われていたのに、ここでまた漁師の仕事に戻っているのはちょっと理解できません。イエス様が十字架で死んでしまった後、失望し、故郷に帰り、以前の生活と仕事に戻っていった弟子たちがいたのかもしれませんが、その
子たちへの顕現と、話が重なっているのかも知れません。

 この漁が岸近く90メートルほどしか離れていないところで行われていたことに注目します。 船の漁師には波が光って魚影は見えませんが、岸の方からはよく見えることがあり、岸近くの漁では岸から指図することがよくあるのだそうです。
 153匹も象徴的な意味を持っていると言います。
当時のギリシャ人は魚の総種類を153と考えていたという説明があります。そしてこの魚の数は、全世界から召されて改宗者を示していると言います。

 イエス様が3度ペトロに「わたしを愛しているか」と問いかけたのを聞いてどう感じましたか? しつこいとか、意地が悪い、と感じませんでしたか? そんな風に言われたらいやだなあ・・と。

 別の訳を一つ聞いてください。「小さくされた人々のための福音」本田哲郎訳からです

「皆が食べ終わったとき,イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネのシモン、あなたはこの人たちよりも、わたしを大切にしているか』と言った。『はい、主よ、私があなたを心にかけていることは、あなたが分かっているはずです』と言うと、イエスは『わたしの子羊たちの面倒を見なさい』と言った。」

 違いがお分かりになったでしょうか。「愛する」という言葉が使われていません。

 3回のやり取りの中で「愛する」と訳された言葉は、ギリシア語では「アガパオーagapao」diligisと「フィレオーphileo」amasという2種類の言葉です。一般的に「アガパオー」は、「神の愛」というときに使われる「本当に相手を大切にする愛」であるのに対して、「フィレオー」はどちらかというと「人間的な愛着」を表すときに使う言葉です。

 ここでは最初、イエス様はアガーパス メと「アガパオー」で問いかけますが、ペトロはフィロー セと「フィレオー」で答えます。2回目のやり取りも同じです。イエス様を否認したペトロが「アガパオー」での問い「あなたはわたしを大切に思っているか」に対して、「フィレオー」「わたしはあなたが好きです」という言葉でしか答えることができなかったのです。そして、イエス様は3度目にはフィレイス メと「フィレオー」で問いかけています。
 「あなたを大切に思っています」と言い切ることができず、ただ「あなたのことが好きです」としか言うことのできないペトロを見て、イエス様はペトロのところまで降りてきて、「私を好いているか」とおっしゃったのです。このように考えると、この対話は罪の重荷に苦しむペトロにとって、イエス様の愛とゆるしを受け取る大きな体験だったと言えます。

 そして、主の許しを胸に、人を漁る漁師として、殉教するに至ったのです。

 主は、私たちに許しをもたらすためにこそ、十字架にかかられました。その主の復活を共に喜び祝いましょう

司祭の言葉 1/16

年間第2主日C年

 イエスの洗礼についての記述の後に3回(1章29,35,43節)「その翌日」という言葉があり、きょうの箇所に「三日目に」とありますので、全部で6日間の出来事ということになります。かなり詳しく日付を追っているのは、重要な出来事と考えたからでしょう。(2章12節以下にはこのような日付を追う表現はありません)

 ブドウ酒がはじめて聖書に出てくるのは何処でしょうか? ノアが飲み過ぎて酔いつぶれたときの話です。 それで、ユダヤ人たちはブドウ酒の作り方をノアに教えたのは神であると信じて疑いませんでした。 聖書には141回ブドウ酒という言葉が出てくるそうです。
 酒屋さんの宣伝をするつもりはありませんが、聖書はブドウの汁を熱烈な言葉で称賛しました。 VINUM LAETIFICAT COR HOMINIS
 「ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ/パンは人の心を支える。(詩編104)
 「酒は適度に飲めば、/人に生気を与える。酒なき人生とは何であろうか。」(集会の書31の27)」勿論飲み過ぎについては強く戒めています。
「過度の飲酒は気分を損ない、/いらだちや、間違いのもととなる。深酒は愚か者の気を高ぶらせて足をふらつかせ、/力を弱めて、傷を負わせる。」

 金属または陶器でできた杯は大きく、問題がありました。飲みすぎたのです。 一般の言語であったアラム語で、結婚をミスティタ「酒宴」と呼んでいた程です。(イエス時代の日常生活Ⅱのp85)
 宴会の途中でぶどう酒がなくなるというのは大ピンチです。現代なら電話一本で酒屋さんからお酒が届きますし、披露宴会場で行われるから、お酒の準備は不要です。でも当時は・・花婿がかなりの量を用意しました。
 「すべての親類、全村、すべての友人、友人の友人が招かれた。祝宴は7日間、時としてその倍も続いた。」(イエス時代の日常生活Ⅰのp206)

 カナで行われた婚礼には母マリアも出席していました。誰かマリアに近い人の婚宴で、手伝いに来ていたのでしょうか。その関係でイエスも招かれていたと考えられます。

 母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言うと、イエスは母に言います。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来て いません。」 母マリアは、台所に立っていたのでしょうか、宴会がうまくゆく様に、心をくばる姿がうかがえます。そしてイエスに、まず最初にブドウ酒が切れそうなことをつげています。 しかし、マリアがせっかく花婿に恥をかかせないように気配りをし、耳打ちしたのに、なぜ、イエスはこんな冷たくとれる言葉をおっしゃったのでしょうか。
 この出来事は、まさに公生活の出発点にありました。 イエスは30年間、母マリアと父ヨセフとの水入らずの家庭生活をしていました。そして、時が来て、救い主としての役目を果たすべく公の場に出ての生活が今始まったところでした。このときの母マリアの気持ちはどのようなものだったでしょうか。我が子はこれからどこへ行くのか。家に帰って来ることはあるのか。できることなら、母としてゆるされる範囲内で一緒に時を過ごしたい。今までのナザレでの生活に近い生活を期待したい、そう思っていたに違いありません。 

 そのとき、祝宴の喜びを増すためのぶどう酒が尽きてしまいました。それを目ざとく見つけたマリアはナザレの時のように、母親らしくイエスに耳打ちします。「 ぶどう酒がなくなりました 」と。それに対して、イエスは、「 お母さん、今はナザレの時とは違います。天の御父の望みに従い、村を出て、公生活を始めたのです。だから、もはや直接わたしに言うべきではありません 」とはっきり告げたのです。                          
 では、その次の「 わたしの時はまだ来ていません 」という言葉はどういう意味なのでしょうか。 ヨハネ福音書の中で「わたしの時=イエスの時」とは十字架の時です(ヨハネ12章23,27節、13章1節、17章1節など)。それは、同時にイエスが父のもとに行く栄光の時でもあります。

 それでもマリアは、それを心に留め、召し使いに言います。「 この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください 」と。マリアはすぐに、必ず一番いい方法をとって下ると信頼しきって、イエスの言うとおりにして下さいと召し使いに告げます。
 1歩退いて、イエスの公生活を陰ながら手伝う。これこそがマリアの道です。
 世の中の人間関係のむつかしさの根本は、距離の取り方です。たとえ親であっても、ある一定の年齢になったら我が子としっかり距離を取ることの大切さを私たちは学ぶ必要があります。 

 正月、セウイで家に帰ったものは1名のみ、多くは正月帰省の問い合わせもありません。精神障害者の家族は上手く距離が取れないのです。急性期の時の様子が
トラウマになって・・・拒否するか  あるいは・・・
共依存となるか・・・部家の片づけ 下着の洗濯 一挙手一投足
          下宿しながら洗濯物を段ボールに入れて家に・・・

 月曜日は成人の日でした。彼らは、これから社会人として責任ある者として一本立ちしていかなければなりません。その前途に神様の豊かな祝福があるように祈りつつ、成人を迎えたわが子に対して、親もまた、今日の福音から大切なことを学ぶことが出来るのではないでしょうか。
  1.全面的な子供への信頼の姿と
  2.距離をとって自立の手助けをすること・・です。

司祭の言葉2021