教会建設のあゆみ

はじめに

昭和41年頃、この付近は大宮教会の分担区域だった。大宮教会の他この近くでミサが行われていたのは、草加松原団地藤幼稚園の聖堂、加須教会、古河教会などであり、武里団地は建設中で、この地区の人口は急増中であった。
 浦和教区司教は 長江 恵師、大宮教会は主任司祭 山根 俊夫師、助祭 西沢師だった。
以下教会報「智も手も」の記事より、教会建設の様子を抜き出した。( )内に執筆者、号数、発行年月日を記した。

第1節 大宮教会分教会の頃

1)家庭ミサ
武里分教会の歩みは日本住宅公団武里団地の開設とともに始まります。1966昭和41年4月17日大宮教会の西沢神父様が小生宅へご来宅、数家族が集まってミサを立てていただいたのが出発です。その後山根神父様がおいで下さるようになり、転入信徒も増え、殊に自治会広報に集まりの3行広告を掲載することにより団地内に周知され、また団地外の方も見えられ毎日曜日の集まりは次第に大きくなりました。一ヶ年程過ぎて、可能な家庭で会場持ち回りをすることになりました。そしてまた一ヶ年程経過する中で、家庭持ち回りもよいが反面、遠慮や当番家庭の周知に困難があるから何処か家や部屋を専用に借り上げたらとの意見が皆さんの間に盛り上がりました。(K.W 70号 1987.12)

2)武里団地分教会
神父様からご理解ある助言をいただき、みんなで討議した結果、1969(昭和44)年4月から公団分譲住宅3DK1戸を借受けました。この事は、その後の教会活動に大きなプラスをもたらしました。誰に気兼ねなく自由に諸行事やミサの前後の勉強、会議、歓談が出来、意志の疎通がはかられ、一体感が養われて参りまいりました。特に特筆することは七里の援助修道会のご援助です。次々に優秀な戦力をお送りいただき、教会学校、聖歌指導、諸行事の企画推進等々、若い分教会の育成に力を貸していただきました。そしてそれは私たちの教会が独立し自立できるまで続けられました。当時を知る者は今でもその全きご厚意に感謝しております。(K.W 70号 1987.12)

3)分教会の頃
武里団地の3DKの一室で、当時の大宮教会の司祭、山根神父が3時からミサを行っていた。幼児を含めて70人の教会で、ミサが終わった後で神父さんを囲んでお茶を飲む習慣のあった家族的な教会であった。70人というと10数家族で働ける人は全部役員にされてしまう状態でした。七里の修道院からシスター2人も来ていただいて、日曜学校が開かれていた。場所が狭く、ミサも日曜学校も充分に出来る場所が出来ないだろうかと時々相談をしたが、夢のような話しなので具体的プランがまとまらなかった。しかし、みなあきらめず努力した。一年間教会建設の貯金をした。一年間の貯金額は7万円だった。(S.U 32号1981.12.20)

第2節 春日部(武里)教会の建設

1)建築計画
1971(昭和46年)教会建設委員会設置。この頃信徒数120~150世帯数30~40でした。ある信者さんから土地の無償貸与(一の割駅7分)の申し出があり、建物は工費含み70万で中古住宅を改造するの計画がはじめにできた。これで回りに気兼ねしないで毎週ミサを開くことができれば十分文句ナシと考えていたのですがどこでどうなったかワイワイやっているうちに土地も買いましょう、建物も30坪ぐらい神父様も常住して下さることになってしまったのですから大変なことになりました。最終的に土地は東急ニュータウン38坪(武里駅徒歩4分)に決まりました。当時の世間一般相場は月収約10万(30才)土地代武里付近で坪15~20万、建築費は小住宅で坪15~20万の時代でした。まず土地代520万、建築費はなんと200万で30坪の予算です。図面は書いたもののどこの工務店でも予算を聞いて尻込み、やっと見つけた横浜の大工さんも約束の日には来てくれない、お金は不足、追加は出る、そこでサッシを全部某メーカーの倉庫係にお願いして超特価で発注したのですが入荷3日後に盗まれてしまいました。(I.K)

2)教会の建設完成
1972(昭和47)年10月のある日、一人の雑誌記者が取材にやってきた。「東京から通勤1時間のベッドタウンのこの小さな土地にカトリック教会が誕生する。教会の経済的自立が叫ばれる昨今、信徒が自力で教会を建てる。そしてもうすぐその建物が完成する」こんなニュースソースを手にカトリックグラフの記者が武里団地を訪れたのです。現地を訪れた記者はまずびっくりしました。東武線がガンガン行き来する線路脇にどう見ても民家と変わらない木造の骨組み、ここが聖堂と説明される部分でも鉄骨の中古品がそそと建っているだけです。これでカトリック教会が出来るのだろうか?と。「東武沿線の春日部越谷周辺に何とかカトリックの基地がほしい!お金なんか皆でどうにか考えよう。10年いや15年返済の借金でもがんばろう!」 盲蛇の勢いでスタートを切った建設事業で、献堂を一ヶ月後に控えて、ジリジリと増える建築費と自分でも負った経験のない借金の山を前にして思案投首の状態だった私たちは、カトリックグラフの記者を前にしても、「献堂前の明るい顔」にほど遠い顔だった。およそ今までの教会のイメージとは違う建物の骨組みの前で、記者は逆に私たちを力づけてくてた。「カトリックには天国ソロバンがありますよ。お金は必ず何とかなりますよ。それよりも全国の人々に、この小さな教会を自分たちの手で作っているということをわかってもらおうではありませんか!」そして12月号に特集記事として掲載されました。そして九州から、京都から、暖かい激励の手紙が春日部に送られて来ました。

あれから3年の歳月が経った。最低10年はかかると思われていた借金の山もほぼ完済の域にまで達しました。そして日曜日のミサは立錐の余地もなく大勢の人々であふれています。思案投首の首もどうやら元に戻り、喜色満面というところです。大勢の皆さんの力を得て出来上がった私たちの教会は第一期工事を無事に終了することが出来ました。(I.K 2号1975.12)

第3節 春日部(中央)教会建設計画

1)越谷地区に司祭館兼集会所の建築計画
当教会も現在では信者数も増えて手狭になっており「何とかならないか」という声も大きくなってきた。昨年より検討を重ねてきたことを具体化した。当初は現在の教会を増築する(2階を上げる)ことも検討したわけですが、鉄骨プレハブ造りのため施工上、経済的に難点があったことなどから、他地区建設に踏み切ったものであります。越谷地区には信者数が比較的多い(全体の1/4)将来的には独立運営の方向をとるという司教様の意向もあったことなどから越谷地区に決定しました。建物の規模土地40坪、建物25坪程度とする。建設予算2100万円。
利用のしかたは、当面は司祭の居所と地区などの集会所として利用。
日曜日のミサは春日部教会で行う。(教会建設委員会 15号1978.9.24)

2)越谷地区への建設断念、広域的に移転、増築を検討
当教会が出来て5年たった。信徒数もこの間に大きく伸びて復活祭には入り切れずに外に立つ人が出るほどである。文字通りあふれるほどになり、この教会の手狭さはいよいよもって、「なんとかしなければ」というところまできている。さらに心理的にだが、教会の両側に家が建てられたため、加えて圧迫感や自転車置き場もなくなってしまい、追いつめられた感じを皆さんに抱かせているようだ。最近にいたって「越谷もさることながら、この教会をどうするのか」という声が、ひところより多くかつ強くなってきている。そうした中で、建設委員会は丸2年越しに検討し、具体的物件を探し、司教様との意見交換をその都度行いながら進めてきたわけですが、今回資金面や当教会の財政能力などを勘案し、一応つぎの結論を出した。
(1)越谷地区への「司祭館兼小集会所」(教会)建設は予算上等問題があり、今は新設せず、当面借家によって行うこととしたい。
(2) 今後は、越谷を含めてさらに広域的に検討する。(建設場所のみではなく、当教会の移転、増改築を含めた方向で)
(3)この問題は一小教区としては大きすぎるので、浦和教区(県南6教区)の問題として取り上げてもらう。
(4)建設資金の積み立ては引き続き行う。 (建設委員長Y.S 18号 1979.6.10)

3)春日部新教会建設計画案決まる
本年度土地を所得し来年4月より建設に着手、新教会に移転という案で司教様の承認をえた。
(1)土地は60坪、建物50坪程度、司祭の住居も含める。春日部駅を中心に徒歩15分以内を予定する。
(2)建物の建設資金(2000~2500万)は現教会の売却により調達。
(3)土地購入金額は3600万程度。うち教区より補助金1000万、積立金は現在600万、残り2000万を借入金とする。
(4)借入金は教区より1000万、教会債として1000万。
(5)教会債、無利子で当教会80世帯(一世帯平均12万5千)。
(主任司祭 K.M 教会委員長 Y.S 建設委員長 H.S 24号 1980.9.20)

第4節 春日部教会の献堂

1)春日部の地に新しい祭壇が作られた 
アレルヤ!1981年12月20日の「今日」私達は主に新しい祭壇を奉献できることを感謝いたします。主の栄光が私達の教会をおおいますように祈ります。荒れ野のイスラエルの民のあの積極的な心から喜んでいる者は、主にささげ物を持ってきなさい」(出エジプト:35~3)とのみ言葉に力づけれられて「今日」ここに奉献できる祭壇を喜びのうちにかこみましょう。この祭壇が私達の平和と一致の基となりますように。そしてこの祭壇をかこむ私達が積極的に社会へと目がむきますように。私達が生きる1981年という時代を意識的にキリスト者として生きてゆきましょう。主に感謝。アーメン(K.M 32号1981年12.10)

2)あたらしい教会にきて
12月20日(日)ついに新しい教会ができた。そのときはうれしくて教会の中にはいりたかった。人がいっぱいだった。しっている人もいるし、しらない人がいっぱいだった。でもかみさまにかんしゃしなくちゃならない。なんでかというとそれはかみさまのちからでつくられた教会だかからと教会の中にかみさまがいるからです。なぜ教会の中にかみさまがいなくちゃいけないからかというとかみさまがいなくちゃ教会とはいえません。かみさまからおめぐみをもらうからです。かみさまにおいのりするために教会があるのです。だからかみさまにかんしゃしなくちゃならないのです。 
ぼくはみことばクラスの3学きはいうことをよくきいてがんばろうと思います。
(みことばクラス M.T 33号1982.1.31)

3)新教会建設の喜び
昭和52年より計画されてきました新教会の建設も軌道にのせることができやっとこの度完成の運びとなりました。実際のところ昨年7月に建設委員長に任ぜられるまでは、大変な資金を必要とする新教会の建設などという事業は本当に実行が可能なのだろうかとこのようなことに経験のない私は、半ば疑問を抱きながら建設委員会に出席しておりました。建設委員長になった後も、適当な土地が探し当てられず、本当に私達の予算にあった教会の建設ができるのかいつも疑問を持ちながら活動をしてまいりました。しかしながら、何度も何度も完成のめどがたたない終わりのない空虚な感じを味わっているうちから、すこしずつすこしずつ完成できるという手ごたえが感じられるようになり、今日この頃では、新しい教会の建設現場を訪ねるたびに本当に完成させることができるのだという喜びを感じられるまでになりました。そして今冷静に考えてみますと、土地は当初の目標の60坪より2割も多い72坪手に入り、建物も50坪程度の目標が3割以上大きい66坪のものを建設することが出来ました。このことは、皆様のお祈り、資金およびその他の協力とそれに応える無言の暖かい神様の愛により支えられ実現されたのだと実感しています。(H.S 33号1982.1.31)