司祭の言葉 4/18

復活節第三主日 (ルカ24章35-48節)

 小生の勤める精神障害者のグループホームセウイでは、時々みんなに配るお菓子が人数分以上あって、少し余ったりします。そんなときは何とかして、できるだけみんなに配り切ります。残っていると、誘惑に弱い私が食べる羽目になり、あとで後悔することになりますから。
 ところでセウイでは何も隠し事ができません。お菓子などが少し残ったとき、その時そこにいるメンバーたちにだけ「よし特別だ、みんなには黙っていて下さいね」そう言って配っても、ぽろっと「さっきのお菓子おいしかった」と言ってしまう。
 「黙っていてと言ったでしょう」・・と言うと、「あ、そうか」との反応。誰も秘密を守りません。楽しかったこと、おいしかったこと、嬉しかったことはみんなに言いたいのです。

 復活は単なる信仰箇条ではありません。キリスト者になるために受け入れなければならない事柄、あるいは命題というよりも、何よりもまずそれは、喜びに満ちた報告なのです。
 「私たちは、主に出会った」「主は生きておられる」 包み隠しておくことのできない、体験の披瀝、体験話なのです。 それは抽象的な知識の伝達ではなく、具体的な体験に基づいているのです。 「わたしたちは主に出会った。」・・この体験の報告が持ち寄られ、分かち合いの中で教会の共有の信仰になり、伝えられ、分配されるようになったのです。

 今日私たちは復活の証言の言葉を聞き、教会の復活信仰を分かち与えられています。その私たちの信仰が、生き生きとした活力を得るためには、私たちの中で、今も、生きて働いておられる復活の主との具体的な出会いをそれぞれが経験し、その体験の報告に耳を傾けて受け止める必要があります。

 エマオの宿で主に出会った二人の弟子は、仲間たちに自分たちの体験伝えようとエルサレムにとって返します。彼らの報告に耳を傾けていた弟子たちの中に、静かなしかし期待を秘めた興奮が高まっていったに違いありません。二人の弟子の心の高まりが、他の弟子たちにも伝わって行き、「実はシモンにも、主はお現われになったんだ」と言うような報告が、主は生きておられるという報告が、あちらからもこちらからも寄せられてきたのです。互いの信仰体験の分かち合いです。そして集まっていた彼らの語り合いの中に、主は現れて下さったのです。
 イエスは聖書を悟らせるために、彼らの心の目を開いて言われます。
 「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する・・』旧約聖書のある箇所の引用ではなく、それが旧約聖書全体をとおして告げられていた神の計画だということです。
 「これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」(44節)・・そう言われて「婦人たちはイエスの言葉を思い出し」ました。(24章8節)

 わたしたちも、イエスのおっしゃるとおりだった・・と、イエスの言葉を思い出すという体験をしたとき、イエスの言葉がわたしたちの中で実現していると感じたときに、イエスはほんとうに今も生きている・・・と、感じることができるはずです。
 復活の主はいつも私たちの傍におられるのですから。