司祭の言葉 9/12

年間第24主日 (マルコ8章27-35節)

 ある人物を正確に捉えるには、時間がかかります。
 セウイにいたYさんもその一人でした。本人は、自分の病気は先生になぐられた為だと言っていましたが、精神障害と知的障害があると診断されていました。  資料ではIQ38 知的な能力は7才程度でした。 
 皆さんの思うところでは、この人はどんな本を読み、どんなテレビ番組を好むと思いますか?  7才の子供の好むテレビや本を想像するでしょう? ところが、私は本当に知的障害者かなと疑問に思うのです。歴史に興味があって、 毎日、新聞のテレビ欄を見て世界遺産の番組や歴史ドラマを探してみていたのです。かつて、大河ドラマ篤姫が放映されたときなど・・「篤姫のお父さんの島津斉彬(なりあきら)」と言ったら 「父は忠剛(ただたけ)で斉彬は養父です」と訂正されました。しかも愛読書は文藝春秋なのです。

 2000年前ユダヤ人社会に彗星のように登場したイエスは、人々に強烈な印象を与えています。説教の力強さに人々は驚き、病人をいやすイエスの力に人々は興奮しました。 イエスの噂は 村から村へ町から町へ そして一時の興奮から、やがてイエスは何者なのだろうと言う問が浮かんできます・・当然、問に対する答はさまざまで・・人々の戸惑う姿をマルコはありのままに報告しています。  
 気が変になっている  汚れた霊にとりつかれている 大工の子ではないか
 洗礼者ヨハネがよみがえったのではないか エリアではないか 預言者の一人ではないか・・・→ 人々にはイエスの正体をつかみきれなかったことがわかります。

 それでは弟子達はどうでしょう。 イエスの正体がつかめていたのでしょうか。

 イエスは次に弟子たちに向かって、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問いかけました。ずっとイエスと共に歩み、イエスのなさることを見てきた弟子たち自身の判断を迫ったのです。  その時、「あの人はこう言っています」とか「この人にこう教えられました」ではなく、自分の判断として、自分とイエスのかかわりの中で、自分にとってイエスという方はどういう方なのかを答えなければならないのです。
 これは、わたしたち一人一人への問いかけでもあります。

 すかさずペトロが答えます 「あなたはメシアです」
「メシア」はギリシア語になおすと「クリストス」 「メシア」はアラム語で「油注がれた者」と言う意味です。サウル王もダビデ王も預言者サムエルから油を注がれ、ソロモン王は祭司ツァドクから油を注がれて王になりました。油は王の使命を果たすために神の霊が与えられることのシンボルでした。 のちには、「油注がれた者」は、神から遣わされる「救い主」を意味するようになっていきました。

 イエスはペトロの言葉を否定しませんでした。イエスはメシアであることには違いありません。しかしペトロの頭にあるメシア像と、イエスの頭にあるそれとは雲泥の差がありました。それはそのすぐ後のペトロの言葉によって明らかになります。

 ペトロが描き人びとが期待していたメシアは、強烈な影響力を持って人々の心を捉え、群衆を一つに集結させ、ローマの支配から解放し、自由と独立を与える力強い存在です。
しかし それは人間の思いであり 神の思いではありません。

「人の子は多くの苦しみを受け、・・・殺される。」

 この言葉に驚いたペトロはイエスをいさめますが
 イエスは、厳しい言葉で「サタン、引き下がれ」といいます。サタンは人間を神から引き離す力のシンボルです。神の意志を行なおうとしている受難の道から、イエスを引き離そうとすることはサタンの働きであるとの意味です。
 イエスはペトロのメシア像をうち砕き、真のメシア像の理解にペトロを導きます。

 そして、イエスはご自分の十字架の道を弟子たちにも示します。十字架刑に処せられる人は処刑場まで自分の十字架を担いで行きました。
 「自分の十字架を背負ってイエスに従う」とはどういうことなのでしょうか?

 十字架はない方が良いのです。私たちは弱いですから。 主の祈りで、「試練に遭わせないでください」と祈る様にとイエスは勧めています。
 イエスも出来るならこの杯を遠ざけて・・・と祈っています。
 でも与えられたなら、それを喜んで担う覚悟が必要なのです。イエスをチネレのシモンが助けたように、私たちの苦しみをイエスが助けてくださる・・との信仰を持って。

 新型コロナウイルスの緊急事態宣言は9月30日まで延長されることになりました。今日はその、試練に立ち向かう力が与えられるように祈りましょう。