司祭の言葉 1/31

年間第4主日 (マルコ1章21-28節) 

 皆様いかがお過ごしでしょうか。なかなかコロナの勢いが収まりませんね。司教団が「政府の緊急事態宣言が出された場合は、会衆参加のミサを中止する」と決めていますので、ミサの中止期間は流動的です。どうぞ、しばらくの間、自宅でのお祈りをお続けください。

 福音にあるカファルナウムは、ガリラヤ湖の北西岸にある町です。ユダヤ人の町には必ず会堂があります。そこは礼拝の場であると同時の教育の場でもありました。会堂には会堂司がいます。会堂の維持管理や聖書の朗読ヶ所の選定をし、礼拝を司会し、また聖書朗読者を指名し、有能な説教者を指名することが役目です。そして、説教するために、特別な資格もありませんでした。

 「律法学者のようにではなく、権威ある者として」教えたとあります。
律法学者は、師から弟子に口伝えに教えられたトーラーやタルムード(口伝律法)を解説して人々を指導しました。モーセにさかのぼりながら、私の先生の教えはこのようなものだった・・・と言う教え方で権威付けをしていました。
 一方、イエスのメッセージは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1章15節)というものでした。 そして、Amen Amen dico vobis 真に真に私は言う・・と言いながら教えたのです。 それは、全く新しい教え方でした。そこに人々は驚いたのです。

 「汚(けが)れた霊」 「霊」はヘブライ語で「ルーアッハ」といい、ギリシア語で「プネウマ」といいます。もともとは「息」や「風」を意味する言葉ですが、古代の人々は人間の力を超えた、目に見えない大きな力を感じたときには、それをルーアッハとかプネウマと呼びました。その力が神から来るものであれば「聖霊」であり、神に反する悪い力であれば「悪霊」を意味します。 病気はこの悪霊のなせる業と考えられ、重度の精神障害者のように、まわりのひとと意思疎通が出来なくなる場合、「悪霊に取りつかれている」と考えました。聖霊が「神と人、人と人とを結びつける力」だとすれば、悪霊は「神と人、人と人との関係を断ち切る力」だと言うことができます。

 古代の頭蓋骨に小さな穴が開いているのが見つかっています。・・・手術のためと考えると小さすぎますので、悪霊を逃がすためだったと考えられています。古代の人にとって「汚れた霊=悪霊」は身近なものでした。人間の理解や力を超えるものがあふれていたのです。

 あるとき、一本の電話がかかってきました。フィリピンから来たダンサーたちが亡霊におびえ、怖がって部屋から出ない、「口々に亡霊が出る、聖水で追い払ってほしいと言っている」と言うのです。行ってみると狭い8畳ほどの部屋に10人ほどが固まって震えていました。聖水で部屋を祝福すると、皆安心して仕事に行きました。

 一人のスチュワーデス希望の女性がいました。学科は通るが面接になると体がこわばって何もいえなくなります。前年もその前の年もそうでした。「悪霊が取り付いていると思うので払ってほしい」と言ってきました。教会では叙階の段階の一つに、祓魔師という段階がありました。悪霊を祓う職務です。儀式書の祓魔の祈りをしました。そしてその年、体がこわばることなく合格できたと感謝に来ました。

 色々な障碍があります。障害によっては、話しをしていても話題がくるくる変わり、脈絡のない話になることがあります。古い言い方をすれば、時々この相手は、何か付き物があってこんな行動に出ているのではないかと、疑いたくなるときがあります。
 セウイに一人の方が入居していました  ・・・仮称 鈴木さん
20歳過ぎに発病し30年入院していました 歳は50ほど。中学生の特はピッチャーで背番号1 高校ではファースト。 彼の時間はそこで止まっています。 調子の良い時は対話が通じますが 調子が悪い時は自分の世界に入ってしまいます。野球のブロックサインをしたりしながらの独り言。 まわりが注意しても耳に入りません うるさく、みんなから向こうに行ってといわれるほどでした。 世話人さんが 大きい声で 「黙れ!! 監督の云う事を聞きなさい。ピッチャー背番号1 鈴木君!」と言うと はっと我に返り、ニヤリとします。 そして対話が出来るようになります。

 因果関係に対する認識がなかったイエスの時代、病気とか障害という最初に生じた状態が、イエスのいやしによって治癒されたという最後に生じた状態を見ると、あたかもそれが一足飛びに起こった現象のように見え、驚嘆してしまったのかもしれません。

 間もなく東日本大震災から10年になりますが、この間、絆と言う言葉が、震災から立ち上がるための合言葉になってきました。互いに助け合い協力し合って、その結びつきを強くしてきました。
 しかし一方で、競争社会の中で、一人一人が孤立し、大きな精神的重圧がのしかかるのを払いのけようとして、それがついには暴力となって爆発してしまう・・・そのような方がたくさんいます。わたしたちも、そのような、一人の人間ではどうすることもできないような、得体の知れない「力」を感じることがあるのではないでしょうか。
 それでも私たちはイエスの弟子として、そのような方々へ手を差し伸べることを忘れないようにしたいと思います。