司祭の言葉 1/10

主の洗礼

 主の洗礼の祝日が来るといつも思い出す出来事があります。
 ちょうど今から22年前の1月10日も主の洗礼の祝日でした。その4日前6日に、杉戸の施設セウイホームでは一つの洗礼がありました。50歳近くになる女性ですが、4日に酒を飲み過ぎて杉戸の東埼玉病院へ救急車で運ばれる騒ぎがあり、一日おいて6日に会社へ出勤しましたが酒が入っていたので帰されると、途中でまた酒を飲み泥酔、再び救急車の世話になり、酔いが醒めて病院から帰る途中また飲んで、再び同じ救急車の世話になりました。でも病院がどこも拒絶して、越谷警察署がホームへ送り届けてくれました。コートを脱がせようとするが脱ぎません。実はポケットにワンカップを入れていたのです。言うことを聞かないので、風呂場でバケツの水を頭から。続いてもう一杯。そしてもう一杯。
 洗礼は手のひらで三回ですが。彼女はバケツで3杯。しかし、洗礼を受けたいという希望がなかったので、この洗礼は無効です。酒の洗礼なら受けたいと思っていたかもしれません。

 さて今日の福音ですが、イエスは30歳でバプテスマのヨハネの噂を聞き、ヨハネの元に出かけました。そして洗礼を受けたのですが、一つの疑問が生じます。何故罪のないイエスが悔い改めの呼びかけの洗礼を受けたのか・・・ということです。
 神学者たちの答えはこうです。ユダヤ人はこれまでユダヤ教への回心者のためにはその儀式として洗礼を授けたのですが、自分たちが洗礼をうけることはありませんでした。しかしこのとき人々の心は神の介入に対して準備しようとして、回心に動いていました。イエスはその心に同調して洗礼を受けられたと思われます。人々の悲しみを身に負い、共に神を探し求められた主は、そこに神の意志をみたのです。
 洗礼はイエスが人々と心を一つにし、人間とご自分を等しくされるための行いだったと考えられます。そのことを神は正しいと認められ応えられたのが、「あなたは私の愛する子、私の心にかなうもの」という言葉です。
 私たちにはいろいろな色々な出合いがあります。その出合いのなかで、求めるものは神のこたえ(恵)をみつけ、心をとざすものはチャンスを失います。
 イエスはヨハネのもとにゆくことによって「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」という神の応えを得ました。
 私達も今日、神の声をきいたら神に心を閉さ無いようにしましょう。

イエスは群衆の中に身を置こうとしました。神の子はそれほどまでして、私たちと一つになり語りかけたかったのだと思います。イエスの洗礼は、罪の重荷のため悩む私たちの元に身を置くための行為でした。
 イエス様は神様のプレゼントです。  昨日片付けましたが、馬小屋のようなクリスマスの飾りではありません。飾りは、必要なときに出して、普段はしまっておきますが、イエス様はいつも私たちのそばにいることを望まれるのです。
 イエスの洗礼の意味を問いながら、イエスの思いを黙想しましょう。