司祭の言葉 8/15

聖母の被昇天


 皆さん、聖母の被昇天おめでとうございます。本来なら守るべき祝日として、共に教会に集い、ラテン語のミサを捧げるはずでしたが、新型コロナウイルスの蔓延で緊急事態宣言が出され、またまたミサの公開が中止となりました。どうぞそれぞれのご家庭で、心を合わせ、聖母の被昇天をお祝いしてください。

 聖母の被昇天というと、聖母が天に昇っていき、冠を授けられる姿を思い浮かべるかもしれません。イエス様は神としての力によって自ら天に昇っていきましたが、聖母の場合は、神に引き上げられたので、わざわざ「被」の字がついています。
 正式には「聖母は地上の生活を終えた後、体と霊魂が共に天の栄光にあずかるようにされた」ことを祝います。生きたまま天に昇ったと取るのも不可能ではありませんが、イエス様も人間として死んだのですから、人間だったマリアは、死んで、復活させられ、天に昇ったと捉えて、話をしたいと思います。この信仰はカトリック教会の信仰で、東方教会はマリアのお眠りと呼び、魂だけが天に迎えられたとしています。

 キリストは十字架にかけられた後、そのお言葉通り復活して弟子たちの前に現れました。私たちの信仰はこの復活を信じることにあります。このキリストの復活は初穂としての復活です。そのあとにすべての人の復活があります。そして今日のコリント人への手紙は、「ただ、一人一人に順序があります」と述べているのです。 人は、終わりの日に、この世で持っていた身体のまま、しかし病気や障害、肉体的な弱さを克服した体で、もちろん他人のものと入れ代わることなく、体ごと復活するのです。
(フィリ3:21 私たちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる)

 マリアは生涯をキリストと共に歩み、いつも、苦難の時も、絶えずもっとも近くにあり、キリストの救いの業の始めから終わりまで、思いと行動を共にしていました。ですから教会は共償者マリアと言う称号をマリアに与えています。イエスと共に贖いの業に参加したマリアです。それなら、死んだ後は、霊も体も共にイエス様から一時も離れず、共にいるのは当然のことといわねばなりません。 また原罪にも、また生涯にわたっても、あらゆる罪に勝利したマリアは、罪の結果である肉体の死に対しても勝利し、栄光を受けるはずです。 それで普通の人のように、世の終わり、最後の審判の日を待つまでもなく、この世の肉体における生を全うしたすぐ後に、イエスと同じ栄光の体を身に帯びることができ、天にあげられたと教会は信じているのです。

 復活の日は私たちにもやってきます。 私たちも、死んですぐと言うわけではなくても、神から離れずに生活するなら、終わりの日に、同じように体ごと復活し、天に引き上げられることになります。 

 天使ガブリエルのお告げを受けたマリアは、エリザベトを訪問しました。その時口をついて出た賛美の言葉マニフィカト(私の魂は主をあがめ)のなかで、「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者というでしょう」とのべていますが、まさにその言葉通りになったと思います。
 今日の福音で読まれたマリア、無原罪の特権を与えられ、神の母となったほどのマリアの生き方の特徴、それは徹底的に、神の僕として小さく生きたことにあります。

 マリア様の生涯は外から見て、決して楽なものではありませんでした。神の子を宿した時には、婚約者ヨセフに疑われ、石打ちにされることも覚悟したでしょう。馬小屋で神の子を産まざるを得ず、幼い子供を抱え知らないエジプトで避難民として貧しく過ごしました。ヨセフとの早い死別や、わが子イエスのむごたらしい死……。
 しかしそれでも神に従うことで、罪の奴隷としての惨めな生活から解放され、もっと自由に、安心と信頼の心で、誇り高く生きることができたのです。そしてすべてを得て、永遠の冠・栄光を受けることができました。
 これこそ無原罪であり、被昇天の恵みを受けるにふさわしい生き方です。私たちキリスト信者もこのマリアに倣って生きていくことが主のお望みであると思います。コロナ下でつらいことの多い毎日であると思いますが、マリアに祈りながらこの苦境を乗り越えてゆきましょう。
 皆様の上に主の平和がありますように。

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生神女就寝祭のモザイクイコン。現在はカーリエ博物館となっている、ホーラ(コーラ)修道院の聖堂内にある。生神女マリヤの身体が中央下に、ハリストス(キリスト)が中央に描かれる。ハリストスはマリヤの霊を抱いている。マリヤの霊が幼女を象るのは、その純潔を意味している。(ウィキペディアより)