司祭の言葉 10/10

年間第28主日(B年)(マルコ10.17~27)

 「神父さん、司祭たちの老後はどうなっていますか?」・・時々そのような質問が来ます。今は子供を神学校に行かせるにも、親はそのような心配をします。 
 わたしが神学校に行こうとした当時は、親はそのような心配よりも、「わが子が途中で挫折して戻ってくるのではないか」ということを心配していました。また、貧しかったにもかかわらず、お金の心配もしていなかったようです。当時は「老後の生活」なんて、発想もできなかったのでしょう。それゆえにお金への執着もなかったのではないかと思います。  

 勿論、お金がどれだけあるかによって、生活設計を立てているのが現実です。司祭にも自分の将来は信者さんに迷惑をかけないように、責任を持たなくてはいけないと言う考えがありますから、どうしてもお金の問題は避けて通れません。「お金の心配をしない・・それでいいのだ」という声と、「それじゃいけない」という声が交錯します。

 今日の福音に登場する青年は、なんと真剣なんだろう、と思います。「永遠の生命を得るためにどうしたらよいのですか」この質問に善良な青年の姿を感じます。
 この質問に対して、イエスさまは「おきてを守りなさい」といわれます。「殺すな。姦通するな。盗むな。偽証するな。欺きとるな。父母を敬え」と。十戒の初めの神に関する三つの掟を除いた項目で、人との関係性を示す掟の部分です。これで、永遠の生命に入ることができるといわれます。
 言い換えれば、神を知らない人も救われるという教えが述べられています。周りを見渡せば、親族友人の中でも、神を知る機会もなく、命を神に返す人がほとんどですから、大きな慰めです。

 青年が(マタイでは青年と言っています)その全てを守りましたと答えると、イエス様は一つだけかけていることがあると指摘し、「財産を売って貧しい人達に与えなさい」と教えてから「さあ、わたしに従いなさい」と招きます。

 イエス様は、永遠のいのちを相続するために十戒では不十分であるから、施しという新しい掟を加えたのではありません。むしろ、十戒はほどこしをもふくんでいるのですが、掟を守ることに懸命な青年の視野には隣人の姿が入らない。しかし、十戒は人が隣人と共に生きるために与えられた神の指示です。
 イエス様にとって隣人とのかかわりを欠いた十戒は無意味なのです。
パウロも、「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」そのほかどんな掟があっても「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます(ロマ13の9)と述べて、イエス様の考えを受け継いでいます。十戒を真に生きる者は、施す者になるのです。

 ただし、だからと言ってイエス様の呼びかけに応えられない自分はダメだと決めつけるべきではありません。 「慈しんで」(agapao」)という言葉には、イエス様の深い愛が感じられます。
 イエス様はすべての人に、このような強い要求をしているわけでもありません。
ルカ19章1-10節に徴税人の頭(かしら)で金持ちであったザアカイの物語があります。ザアカイはイエス様に出会い、救いを受け取ったとき、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言いました。 イエス様はザアカイのこの決意を良しとしています。

 なぜ、きょうの箇所ではすべてを捨てて、貧しい人に施す、ということが要求されているのでしょうか?

 イエス様はこの男に「あなたに欠けているものが一つある」(21節)と言います。それはこの人の生き方の問題に気づかせるためだったのではないでしょうか。
 イエス様の言葉を聞いて、彼は「悲しみながら立ち去り」ました。
 こうして、彼が「自分の財産」に全面的に頼りきっていたことが明らかになってしまうのです。 そしてこのことは、私達みなが絶えず反省すべき事だと思います。

 私もあまりに金に頼りすぎてはいないでしょうか。 あなたの心は私のうちにない・・そうイエス様はおっしゃって、嘆いているかもしれません。
 イエス様の言葉です。「あなたの宝のある所にあなたの心もある」(マタイ6の21)