司祭の言葉 2/7

年間第五主日(B)

 ペトロの姑の癒しの話です。でも、ペトロの奥さんは出てこないのですね。もてなしたのは姑だけではないと思うのですが。何故でしょう。
 イエスによる癒しののち、姑はすぐにもてなし始めます。そこのところを強調したいのではないでしょうか。このもてなしが姑の感謝の心としてのもてなし、奉仕となって示されるのです。姑の喜びと感謝の心が感じられます。そしてこの出来事でイエスの評判は広がってゆきます。

 「もてなす」はギリシア語で「ディアコノーdiakono」といい、「食卓で給仕する」ことを表します。たとえば、 畑から帰った僕は主人のために「給仕する」(ルカ17:8)、目を覚ましていた僕たちに主人が「給仕する」(ルカ12:37)ここにディアコノーが使われています。
 さらには食卓だけでなく、あらゆる奉仕を表し、「仕える」の意味にもなります。たとえば、 悪魔からの試みを受けるイエスに「仕える」のは天使たちです(マコ1:13)し、ガリラヤの婦人たちもイエスに「仕える」人となります(マタ27:55)。
 また、十字架を含むイエスの全活動を表す用例としても、ディアコノ―が使われています。 
「仕えられる」ためではなく「仕える」ために来たイエスは、多くの人の身代金として自分の命をささげます(マコ10:45)。

 ディアコノーと言う言葉から教会の職務の一つであるディアコノス(助祭)が生まれます。使徒言行録の中で、日々の分配のことで教会内に苦情が出た時、食卓の世話をするために7人が選出され、それが教会で助祭と言う職務になります。東方教会では輔祭、聖公会ではデーコン(執事)と呼ばれています。(デーコンと言うと私は大根を思い起こしてしまします。福島で子供のころ大根をデーコンと言っていたように思います。)

 第二ヴァティカン公会議以前は、助祭は司祭への通過点になっていましたが、さいたま教区のように現在は助祭として固有の職務を再確認する方向に進み、司祭には叙階されず、既婚者もなりうる終身助祭(parmanent deacon)の制度が復活しました。
 現在助祭は男性に限られていますが、40歳以上の独身女性の叙階を認めるなどの例が教会の歴史においては見られます。(カルケドン公会議)それで、今後は女性の助祭職も検討してほしいと言う声もあります。

 イエスから癒しを受けたペトロの姑は「もてなす=仕える」人となりました。その後は聖書には述べられていませんが、イエスの弟子となり、イエスのように「愛と奉仕に生きる人」になっていったと考える神学者もいます。イエスに奉仕した多くの女性の中の一人となったかもしれません。イエスのいやしを体験することによって、その人の生き方が変わったと。

 私たちもイエスとの出会いによって心の癒しを受けています。そして生き方も変わってきているのではないでしょうか。

 それからもう一つ、「悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」とあります。原文では普通の「話す」という言葉が使われていますが、「もの言う」は中々良い訳と言えるかもしれません。これについては次のような解釈があるからです。例えば、「肩書きがものを言う」という表現が日本語にはありますが、「ものを言う」は「悪霊が力をふるう」ことと同じだったと考えられる・・・と言うのです。イエスはそれを許さないのです。

 オレオレ詐欺にあってしまう人は、電話で相手と話してしまい、相手の巧妙な話術にはまって、信じてしまうのだと言います。一番いいのは相手に話させないことです。そのためには直接話さないで、録音するのがいいと言います。悪に引き込むような話題にも耳を貸さず、相手に話させないのが一番の防御法かもしれません。