司祭の言葉 8/1

年間第18主日B年

 五つのパンと二匹の魚で五千人を養われた「しるしを見て」、群衆はイエスを捜し求めて対岸にまで押し寄せます。しかしイエスの見るところ、群衆が来たのは「しるしを見た」からではなくパンを食べたからです。もちろん対岸まで駆けつけた群衆に悪意のあるはずがありません。群衆とイエスの間にずれが生じた理由は、彼らは本当の意味でしるしを見ることができなかったことにあります。
 「あなたがたは」とイエスは言われます。「驚くべき事を見た。あなたがたは、いかにして神の恵みが群衆を養うことが出来るかを見た。あなたがたは、これらのことを行った神に思いをはせるべきであった。それだのに、あなたがたは胃袋のことばかりを考えているために、自分達の魂のことを考えることが出来ないのだ」と。

 奇跡は指差しです。今、群衆に求められているのは、「しるしの先を見る」ことです。五千人を養った出来事の内には、神の慈しみが溢れています。 こうしてイエスこそ神から遣わされた方だと信じること、それこそ命のパンに与る最大の業なのです。  けれども彼らは言います。「どんなしるしを行ってくれますかわたしたちの先祖は荒れ野でマンナをたべました。」
 マナは現在でも見られる自然現象だと言われます。荒れ野に生えるタマリスク(ギョウリュウ)の木に寄生するカイガラ虫は枝から多量の樹液を吸いますが、余分な樹液を排出します。それが固まって白く黄ばんだ小さな玉となって地に落ちたものは、蜜の代用物になるほどに甘く、ベドウィン族は今でも食べているそうです。
 イスラエルが食べ物の見つけにくい荒れ野で、このようなマナに出会ったとすれば、大きな喜びだったにちがいありません。しかし、彼らがそれを神からのプレゼントと見たときに、その喜びはいっそう深いものになってゆきました。それは単なる自然現象なのではなく、荒れ野を導く方が与えてくれた食べ物だからです。
 ユダヤ教のラビの固い確信によると、来るべきメシアは、再びマナを降らせるはずでした。マナを与えたことはモーセの生涯における最大の業と見なされ、メシアはそれと同等かそれ以上の業をしなければならなかったのです。
 その信仰によれば、ひと壺のマナが最初の神殿にある契約の櫃の中にかくされていて、その神殿が破壊された時にエレミヤがそれをかくしてしまったが、メシヤが来る時、再びそれを出すだろうと言うのです。そしてユダヤ人達はイエスに、神からのパンを生み出すようにと挑戦していたのです。
 彼らは5000人を養ったパンを、神からのパンとは見なさなかったのです。

 イエスは「神のパンとは天から下ってきて、人間に、単に肉体的飢えからの満足だけではなく、生命を与えるお方なのである。」と語られました。

 この一週間この言葉を黙想したいと思います。