司祭の言葉 11/21

王であるキリスト Jo18章33節~37 B年

 今日の朗読個所は、大祭司たちがイエスを尋問した後、ローマ総督ピラトにイエス様を処刑させるため総督官邸に送り、これを受けてピラトがイエス様を取り調べるくだりです。

 ピラトは、いつもは地中海に面した港町カイザリアに住んでいますが、過ぎ越祭のように大勢の群衆がエルサレムに押し寄せる時期には、不測の事態に対処するために、エルサレムのヘロデの宮殿か、あるいはアントニア要塞に官邸を置いていました。
 彼はローマ人ですからユダヤ人の政治的な動向には細心の注意を払っていましたが、信仰上のもめ事には全く関心を持っていませんでした。そこで大祭司たちは政治上の問題として訴え出たのです。自分を「王だ」と言っている謀反人だと。

 王と言っているとすれば大問題です。王の任命権はローマにありましたから。
 ピラトは、「お前がユダヤ人の王なのか」と切り出します。「お前が」と、強調されています。目の前の人物は予想とは違った、みすぼらしい無力な人物であり、とても「王」とは云えない姿に驚き、軽蔑の心をにじませながら「お前のような者が王だというのか」と口に出したのです。

 ピラトはこれまで、多くのユダヤ人の問題を尊大な軽蔑の念を抱いて処理してきました。

 しかし、イエス様をそのようには処理しませんでした。物語を読んでゆくと、ピラトは自分の理解できない状況の中で、とまどい、あがいているのがわかります。

イエス様はあからさまに、「私の国はこの世には属していない」と言うことによって、自分は王である、しかしそれは、地上のものではないと定義を下します。
 エルサレムの空気は、常に爆発の危険をはらんでいました。過ぎ越祭りの時期は民族意識が高まって、ものすごい、一触即発のダイナマイト状態となりました。ローマ政府はそのことを良く知っていました。そこでいつもこの時期は、臨時の軍隊をエルサレムに送り込んでいました。
 もしイエスが暴動を起こそうと思ったら、志願兵を募ったなら簡単に成功したと思われます。ピラトは、どんな時も3000人以上の軍隊を持ちませんでした。その一部は本部のカイザリアに、一部はサマリアに置かれましたから、エルサレムで実際の任務に当たっていたのは数百人でした。

 イエス様はここで、自分が王であることを明らかにしながら、同時に、自分の王国が軍事力でなく、人間の心の中の王国であることを明らかにしています。

 ここでイエス様は自分が何故世に来たかを述べます。神についての真理、人間そのものについての真理、人生についての真理を教えるために来たと。

 これこそ、まさに、わたしたちがキリストを受け入れるか拒絶するかのどちらかを決めなければならない大きな理由です。

 真理について中途半端な道は許されませんから
 人はそれを受け入れるか、拒絶するかのいずれかになります。
 そして、キリストがその真理なのです。

 私は王と言う言葉が好きではありません。この世の王は、力によって弱いものを従属させる、そのような王ですから。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず・・」という有名な言葉があります。福沢諭吉の「学問ノススメ」冒頭の言葉です。王と臣民・・・ここに貧富の差や人種差別、貴賤と言った差別の原点があるとみるからです。

 聖書における王の起源は、神こそは王であるというものです。このお方はすべての人を神の国へと招き入れます。人々がこの世の王を求めた時、神こそが王でありこの世の王は必要ないとさとしましたが、人々は人間の王が欲しいと聞き入れませんでした。(サムエル記上8章)

 わたしたちはキリストを王としていただいています。
 今日はそのことを忘れないための日です。
 わたしたちは、・・・武力によってではなく、人々の心を愛によって征服する務めをもつキリストの、愛の兵士です。

 「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」
(1コリント9ノ16)
 と言ったパウロにならい、わたしたちもまた、一人一人の心の中にこの福音を述べ伝えたい、との思いを新たにしたいと思います。