司祭の言葉 5/2

復活節第5主日B年

 イエスはわたしにつながっていなさいと言われます。
・・・ぶら下がってじゃないことに感謝します。子供大はぶら下がるのが大好きです。幼稚園。の子供たちは、お猿さんみたいに庭の雲梯というアーチ形の鉄棒を渡って行きます。私も小学生のころには好んでこの雲梯で遊びましたが、今はもう無理です。腕の力がなさすぎますから。最近久しぶりにぶら下がり健康器にぶら下がってみたら15秒ほどでダウン。その点スポーツクライミングする人にはただ驚くばかりです。

 イエス様は私につながっていなさいといわれますが、ただつながっているだけではだめなんです。そこのところがポイントなんですね。
 まず、枯れ枝ではだめですね。当たり前ですけど。
 そして実のならない枝もダメなんですね。「私につながっていながら実を結ばない枝は父が取り除かれる」とあります。

 イスラエル民族が、今のパレスチナ、かつてカナンと呼ばれていた土地にエジプトを脱出してやってきたときに、乳と蜜の流れる良く肥えた土地であることを示すために、斥候はそこのブドウの一房を担いできました。巨峰よりも大きな実がたわわになっていたといたといいます。
 ブドウはイスラエルにとって神の恵のシンボルでした。マカバイ王朝の紋章はブドウの木でしたし、神殿の栄光の一つは聖所の前面にある大きな黄金のブドウの木だったと言います。  イエス様がよく話されたカペナウムの会堂の門には、ダビデの星、ソロモンの星とともに、一房のブドウが刻み込まれていました。

 旧約聖書にはブドウの木のたとえが沢山出てきます。でもいずれも、預言者を通じて、神の嘆きの対象として出てくるのです。 
 「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑、主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁きを待っておられたのに見よ、流血。正義を待っておられたのに見よ、叫喚。」(イザヤ5の7)
 わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる確かな種として植えたのにどうして、わたしに背いて悪い野ぶどうに変わり果てたのか。(エレミヤ2の21)

「イスラエルは伸びほうだいのぶどうの木。実もそれに等しい。実を結ぶにつれて、祭壇を増し、国が豊かになるにつれて、聖なる柱を飾り立てた。(ホセア10の1)

 イエス様は良い実を付けないイスラエルに代わって「真のブドウの木」となります。  このブドウの木の実りは、父である農夫の働きによってもたらされます。
 農夫は実りのために心を砕いて枝に手入れをします。この農夫の働きに身をゆだねるとき、枝はよい豊かな実を付けることが出来ます。そして、父と人を結ぶ絆は「わたし」すなわちイエスなのです。

 でも実をつけない枝は切り取られてしまいます。切り取られた枝は何の役にも立ちません。神殿ではある時期、生贄を焼くための薪になる木を持って行くことになっていましたが、ブドウの枝は持ってきてならないと定められていたということです。何故でしょうか。火力が弱すぎるからです。

私の部屋の前には、アケビの棚があります.樹勢が強くどんどん伸びますから剪定をします。春先のはだめですが、秋の枝は丈夫でよくしなりますので、かごなどを編むのに使うことができます。でもぶどうのつるは折れやすく弱いのでそのような役にも立ちません。ただ集めて焼かれるだけです。
 
 さて、イエス様の驚くべき言葉は、イエス様も私達につながっているという約束です。「私はブドウの木」ということばの、その中央の、3~4節には「わたし」の働きが語られています。 「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」 イエスの言葉には、弟子達を清くする力があります。それはイエスが神にとどまっているからです。

 2節「手入れをなさる」は原文では、3節の「清くなっている(カタロスkatharos)」という形容詞から派生した動詞で、「清くする」が普通の意味ですが、「枝を清くする」というのは「刈り込む」「剪定(せんてい)する」ことを表しているそうです。

「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」も「イエスの言葉によって刈り込まれる」というイメージなのでしょう。 イエスの言葉は、わたしたちにとって時として厳しく、痛いことがありますが、それが自分にとって大きな成長のチャンスでもあった、そんな経験があるのではないでしょうか。
 そして、キリスト者はイエスの言葉によって「すでに清くなっており」、そのようなものとしてイエスにとどまり続け、うちにもそとにも、その実を示すのです。

 もう一度思い起こしましょう。実のならない枝は、刈り取られるのです。この実を結ぶとはどういうことか、考えてみましょう。花芽の無い、葉だけ茂らせる枝は刈り取られるのです。