司祭の言葉 12/19

待降節第4主日 困っている人々とのふれあい

 今日のお話は、マリアのエリザベト訪問です。天使のお告げの時に、いとこのエリザベトが妊娠6ヶ月になっていると聞いたマリアは、直ちに彼女のもとへ向かいます。エリザベトは高齢でした。出産前の何ヶ月かは手助けが必要であるに違いない・・・そう思ったからでしょうか。あるいはエリザベトと共に神の御業について語り合い、喜びを分かち合うためだったのでしょうか。
 マリアは長い間待たれていた、救い主の母という最も祝福された立場になったばかりでした。でも、自分の身に起こった出来事で頭が一杯になってしまい、自分のことしか考えられないという女性ではありませんでした。エリザベトの喜びを分かち合い、大変な時期にある年上の従姉のために急いで駆けつけるのが自分のつとめであると考えたのだと思います。

 マリアはエリザベトの家に着くとすぐに、シャローム!とヘブライ的に挨拶を交わしたはずです。その挨拶は抱擁しながらする習わしでした。そしてこの時、エリザベトはすべてを知ったのです。
 3年ほど前心臓の検査をしたとき、カテーテルを血管に入れて心臓近くで造影剤が注入されました。注入されたとたん、一瞬のうちに全身にひやりとした感覚が走りました。
 はっとする感覚でした。マリアと抱擁したとき、エリザベトのうちに似たような、でも不快ではなく、甘美な喜びの感覚が走ったのだと想像します。その感覚は一瞬のうちにエリザベトの胎内の子にも伝わりました。そしてヨハネは喜び踊ったのです。丁度、契約の櫃をエルサレムへ運びあげるときのダビデのように  (サムエル下6の5)

 この時エリザベトは、聖霊に満たされ、預言者のごとく声高に、「わたしの主のお母様が、わたしのところにきてくださるとは、どういうわけでしょう」・・・と叫びました。マリアが主から選ばれた者であることを認めて賛美したのです。そしてマリアは、今も世界中で多くの人が唱えている賛歌、マグニフィカトをもって応えたのです。
 この祈りは毎日、教会で晩の祈りの時に唱えられています。

 マリアはエリザベトの身の回りの世話をはじめましたが、マリアの行いを突き動かしていたのは、彼女に満ちていた聖霊でした。

 隣人の下にキリストを運ぶことは、マリアにならう大切な行為です。
 お話したことがあるかどうか忘れてしまいましたが、サレジオ会のボナノッテで聞いた一つのお話があります。

 フィリピンにボーイズタウンという少年の施設があります。

このボーイズタウンという孤児院、名前からも分かるとおり、男の子だけの養護施設です。

12歳から18歳の少年を受け入れています。運営しているのがカトリックのサレジオ会という修道会なのですが、ここがまた体育会系でして、規律を重んじていて、罰則が「祈りながら腕立て伏せ30回」とか、「教会まで走って祈りに行くのを10往復」とか、精神と体が鍛えられるものになっているそうです。職業訓練などにも力を入れており、卒業生は真面目に働くことでよく知られています。
 さて、ある神父さんの話ですが、そこのポスターには、若者が年下とはいえかなりまるまると太った男の子を背負っている姿があって、そこには「その子は重くないかい?」という問いかけと、問いかけに対する若者の答が書いてあったそうです。

 若者の答はどのようなものだったでしょうか。それは「重くないよ、弟だから」というものでした。

 キリストを運ぶことも重荷ではありません。キリストを必要としている人々の下に、キリストを運ぶことは喜びなのです。

 マリアも突き動かされるように出かけました。私たちも、愛のために豊かな感受性が与えられるように祈りたいとおもいます。どこかに困っている方はいないかと、いつも気にかけるものでありたいと思います。

 車を運転している方はご存知ですが、道路に菱形の表示が書かれているところがあります。それは、信号のない横断歩道の手前で、二つ書かれています。 この先には横断歩道がありますから注意してください。横断者がいたら止まってください、という注意喚起のしるしです。運転者には、渡る人がいないか・・・と、目を配ることが求められているのです。

 クリスマス直前のこの時期に、マリアの足取りを追い、現実に困っている人の助けになろうとするのは、時宜にかなったことと云えます。病人、体の不自由な人、老人に声をかけるだけでも良いし、援助の手を差し伸べるのも良いでしょう。身よりのない孤独な人を訪問することでもよいでしょう。それはキリストを運ぶ行為です。でも勇気がいりますね。

わたしたちが勇気を出して、キリストの心を運ぶことで、神の素晴らしさに気づく人もいるかも知れません。  長いこと忘れていた信仰と愛に気づく切っ掛けになるかも知れません。あるいは、人間不信に陥り、神に失望しかかっている人々に、新たな光と希望を与えることになるかも知れません。

 ちまたのクリスマスにはキリストの姿はありません。自分達だけが楽しい時間を過ごそうとする、そんなキリスト不在のクリスマスです。しかしながら、勇気をもって、クリスマスにキリストを呼び戻そうとするのは、真のキリスト者の行為です。
 キリスト無くして、祈りなくして、何がクリスマスでしょう、マリアに倣い、愛の業を行動に移す恵みを祈りましょう。