司祭の言葉 4/4

主の復活

 主の復活おめでとうございます。この季節が大好きです。花粉には悩まされますが、自然界は花盛り、レンギョウ、モクレン、梨、桃、菜の花、タンポポ、そして桜。
 この時期になると思うのですが、何と桜の木の多いこと・・。なぜ桜の木がこんなにも愛されるのでしょうか? まず、散り際が美しい。水面の上に落ちると筏のように列を作り花筏になります。下流ではヘドロにならないようにすくい上げています。
 この散り際のよさから、その潔さを強調し、戦時中には軍歌「同期の桜」のような歌詞がつくられました。「咲いた花なら散るのは覚悟、見事散りましょ国のため」
 その散り際は散華ということばで美化され、多くの若者が死に急ぎました。
 しかし今はその桜の満開の見事さが喜ばれています。桜のよさは散り際だけではありません。桜前線はいつ来るのかと期待を持たせます。また来年同じように美しい花を咲かせてくれることを皆が信じています。
 私はそこに復活の期待を持ちます。秋にはすっかり葉を落とし寂しげですが、そこにはすでに花芽を持っているのです。私たちに満開の花を見せるために、その準備として眠りにつくのです。寒い冬の日々があってこそ、美しい花をつけます。

 死は全ての人に訪れますが、そこで終わりではなく、復活の日がやってきます。
 イエスの復活こそはその証なのです。しかしイエスの死はなぜあのような死でなければならなかったのでしょうか、なぜ釈迦の涅槃のような死でなかったのでしょうか。十字架上の死がなぜ必要だったのでしょうか。イエスの死はエルサレム入場のわずか4日後のことでした。すべての人に捨てられた思いの中で、イエスは鞭打たれ十字架を背負い、罵声の中で息絶えました。

イザヤ書53章はその予言を通して、神のしもべの死にざまを予告しています。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

 でもイエスは信じていたのです。自分のことが記念されてゆくと。弟子に裏切られる絶望に近い苦悩の中で、弟子たちを、人間を信じていたのです。私には信じがたい出来事です。

 ゴキブリは共食いをします。その共食いをやめさせるために、あなたはゴキブリになれますか?我々は神の目から見ればゴキブリ以下です。二つの大戦を経験して、戦争がいかに愚かしいことかを見てきたのに、何も学んでいません。

 今年の2月、中国は海警局に武器の使用を許可したとのニュースが流れ、世界の耳目が集まりました。ミャンマーでは内戦が起きるのではないかと危惧されています。
 また、日本では、福島の原子炉が大津波のためにすべての電源を失い、制御不能となって水素爆発を起こして放射をあたり一面にまきちらしました。10年たった今、なお避難を余儀なくされている人が数万人もいるのに、すでにそのことを忘れてしまっているかのようです。安全のための確たる対策も取られないまま、原子炉は再稼働を始めています。
 大量破壊兵器、核弾頭をつけたミサイルがつくられ、今まさに第三次世界大戦の勃発が危惧されています。私たちが排出した炭酸ガスは地球温暖化を招き、今のまま行けば30年後には地球は滅亡への道を歩み始めると言われていますが、夫々のエゴがぶつかり合って平和の道は遠のくばかりです。そんな人間はゴキブリ以下ではないでしょうか。

 その人間のために神は人となり、十字架上の死をもってその罪を贖い、復活の命を約束して下さいました。
 今こそ、私たちはその贖いにふさわしい実を結ばねばならないと思います。
 イエスが愛したように、自分を大切にし、隣の人も同じように大切にする・・・その生きかたを実行してゆかなければならないのだと思います。
 今日はイエスの復活の出来事を記念しながら、イエスに付き従う決意を新たにし、そのための勇気を与えられるように、祈りたいと思います。