司祭の言葉 8/29

年間第22主日

 今日の聖書のみ言葉は、手を洗わないで食事をすることについての問答です。

 先日、夏休みが終わっての登園の時、家族と一緒にいる生活が続いてほしかったのでしょう、年少組の子供たちの何人かが門を入るときにぐずって泣きました。でも泣きながらも、消毒のために手を差し出しました。新型コロナウイルスのまん延は子供たちにとっても手洗いは日常となっています。
 イエスの裁判の時にピラトが、自分には責任が無いということを主張するために「手を洗った」とありますが、ユダヤ社会の「手洗い」はそのような意味でも、衛生上の意味でもありません。当初は衛生上のニュアンスを含んでいたかもしれませんが、手洗いは儀式的なきよめとして行なわれていました。

 レビ記の11章の中に次のような記述があります。「地上を這う爬虫類は汚れている。その死骸にふれる者は夕方まで汚れる。泉やため池に死骸が落ちた場合その水は清いままである。ただし、その中の死骸に触れた者は汚れる。食用の家畜が死んだとき、その死骸にふれた者は夕方までけがれる。衣服を水洗いせよ。夕方まで汚れているからである。  あなたたちは自分自身を聖別して、聖なるものとなれ。」

 もともと、ユダヤ人にとって律法は二つのことを意味ました。それはまず十戒を意味し、次に旧約聖書の最初の五つの書物を意味ました。しかし、そこに記述されているのは、大きな道徳的原理です。長い間ユダヤ人たちはそれに満足していましたが、キリストのおいでになる4-5世紀前から律法の専門家たちの階級が出現してきました。彼らは大きな道徳的原理に満足せず、これらの原理を拡大し、拡張し、数千の小さな規定や規則を作ることをのぞみました。そして、生活はもはや原理によっては治められず、細かい規則や規定によって支配されたのです。 それらは口伝律法と言われていますが、長老たちからの言い伝えです。
 のち3世紀にこれらの口伝が記述され、ミシュナーと呼ばれるようになりました。

 その中で特に、手を洗うことについては一定の厳重な規則がありました。儀式的な清めとして、全ての食事の前に、また料理が替えられる度ごとに手をあらわなければならなかったのです。手を洗わないで食事をすることは文字どおり罪とされました。そして一時が万事、ユダヤ人たちはそのような外見のことばかりを気にし、言い伝えによってそれを守ることが信仰だと思っていたのです。
 イエスはそこを正します。

 彼らは尊敬すべき昔の人の言い伝えに固執しますが、イエスの目から見ればそれは「人間の言い伝え」に過ぎません。

イエスは人間の言い伝えと神の掟の同等性、両者を同じレベルに置くことをきっぱりと否定します。 彼らは神の掟の周りに人間の掟を張り巡らせることによって、結局は神の掟をないがしろにしていることを解らせようとします。

 けがれは本当はどこから生じるかを教えます。けがれは洗わぬ手から生じるのではなく、人の心から生じると。
 掟を完全に守ろうとする努力は、マニュアルとでも言うべき細かい規則を作ることに通じます。いったん細かい規則が出来ると、それが一人歩きを始めます。細則を守ることが中心となり、守った人は守れなかった人を見下すことになります。こうして他人を非難し、せっかくの努力が神の掟からは遠ざかる結果を招いてしまいます。思いやりに欠け、愛に欠けてしまうのです。

 規則の中に、どこまでが禁じられどこまでが許されるかを見るより、神自身に聞いて、神の御旨を行おうとすることが大切だということです。そうすれば他人を非難するのではなく、相手の身になって考えることが出来るようになり、いつも他人のあら捜しをしたり、イライラすることもなくなると思います。イエス様の教える生き方、神に聞く生き方は、まさに精神衛生上の秘訣にも通ずると言えます。
 私たちにとっては、今ここにイエス様がいらっしゃるならどうするか・・イエス様ならどうなさるかということに、思いをはせることが大切です。

 新型コロナウイルスの勢いはなかなか衰えません。一日も早く公開ミサが再開されるように祈りましょう。皆様の上に主の恵みをお祈りいたします。