司祭の言葉 6/6

キリストの聖体B年(マルコ14章12-16, 22-26節)

 司祭になって間もない40数年前、箱根の強羅温泉でベテル聖書研究会という、講師養成講座に参加しました。カトリックとプロテスタント両方が参加したエキュメニカルな研修でした。
 一週間の研修が終わって帰るバスの中で、隣に座ったプロテスタンド教会の牧師が話しかけてきて、しみじみと、カトリック教会はご聖体があるからうらやましいといいます。いつもキリストの現存を感じることができる。プロテスタントは最後の晩餐の記念はするが、終われば何も残らない。カトリックは神の恵みのしるしとしてのご聖体がいつも聖堂に安置されているので、いつもそこで神の現存を感じることができる・・・とも。

 お寺さんに行くと、本堂には仏像が置かれ礼拝の対象となっています。ご本尊と言うこともありますね。ご本尊と言う言葉を調べると、「ご本尊と言うのは寺院や仏壇の中で中央に安置している、信仰の大切な対象となるものです。同じ仏教でもそれぞれの宗派やお寺によって、ご本尊は異なります。例えば浄土宗ではあみださまのほか「南無阿弥陀仏」の名号をご本尊とすることもあります。日蓮宗では「南無妙法蓮華経」を中心とした曼荼羅を安置します」とあります。

 ところで私たちの信仰の対象であるご聖体は「ご本尊」でしょうか?
 どう思われます?
 所沢教会は今小手指と言うところにありますが、かつては、今のNTTのある「星の宮」と言うところにありました。今から47年前の話です。当時の岡神父さんはNTTに請求する移転費用の中に、ご本尊の移動のお金も入れました。私たちの信仰の対象ですから。
 NTTはカトリック中央協議会のほうに、「ご聖体はご本尊かどうか」という問い合わせをしました。返事は、「ご本尊ではない」というものでした。そして移転費用は出ませんでした。
 ご本尊かどうかは別として、ご聖体は私たちの信仰の根幹にかかわるものです。

 申16章には過ぎ越し祭の記述があります。
 「アビブの月を守り、あなたの神、主の過越祭を祝いなさい。アビブの月のある夜、あなたの神、主があなたをエジプトから導き出されたからである。あなたは、主がその名を置くために選ばれる場所で、羊あるいは牛を過越のいけにえとして、あなたの神主に屠りなさい。その際酵母入りのパンを食べてはならない。七日間酵母を入れない苦しみのパンを食べなさい。」 (青穂の月 カナン人の暦の古い呼び名 バビロン歴では1月 ニサンの月 太陽暦の3-4月) 

 今日の福音は、イエスと弟子たちとの最後の晩さんが「過越の食事」であったとはっきり述べています。新約聖書は、イエスの受難を過越祭と結びつけ、イエスの死が人々を罪の支配から解放し、神との和解をもたらす「新しい過越」の生贄であると考えています。

  「パンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えた」 
 イエスはここで特別なことを言いました。「これはわたしの体である」 ・・「これはわたしだ」という意味です。これを食べることは、イエスと一つに結ばれることなのです。

 また、「契約の血」は今日の第一朗読、出エジプト記24章8節にある言葉です。
 「これは・・・わたしの血」、ここには「多くの人のために流される」という言葉が加えられています。「多くの人」はヘブライ語的な表現で、意味としては「すべての人」ということで、イエスは自分の死を、すべての人の救いのための死であるとおっしゃっているのです。

 古い契約は十戒と言う10の掟を定めました。 そして新しい契約は「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」というただ一つの掟を私たちに示しています。

 私たちはご聖体をいただき、イエスと一つに結ばれることによって、この掟を守ることが可能となるといってもよいでしょう。イエスのように愛する・・・並大抵のことではありませんから。

 「新しい契約」はイエスによって実現しました。 しかし、最終的にわたしたちが神と完全に一つに結ばれるのはまだずっと先のことです。そこに向かって歩むための糧として、ご聖体が与えられている事を感謝し、おそれずに主に近づきたいと思います。