司祭の言葉 10/17

年間29主日B年

 歴史を振り返れば、有名な専制君主は古今東西を問わず、圧政によって支配してきました。そして今なお、多くの国で、権力はまさに力と暴力によって行使されています。
 現在のミャンマーも香港も民衆の願いは、力によって封じ込められてきました。アフガニスタンも武力が支配し、民衆の自由は封じ込められています。
 2019年末で紛争や迫害により故郷を追われた人の数は7950万人となり、97人に一人となっているとのことです。

今日のパンフレット(聖書と典礼)の下の説明に、三回目の受難予告に続く箇所・・・とあります。イエス様はこれまで弟子達に、ご自分の生命が犠牲として捧げられるもの、であることを三度告げました。受難の予告です。しかし三度とも、この世の権力を夢見ていた弟子達には、イエス様の言わんとするところが理解できませんでした。

 戦の前に恩賞を約束し、配下の戦意を高揚させるのは指揮官の常套手段なので、彼らは「世の常にならって、わたしたちにも恩賞を約束して下さい」と願ったと思われます。

 イエス様の答は「あなたがたは、自分が何を願っているかわかっていない。このわたしが飲む杯をのみ、このわたしがうける洗礼を受けることが出来るか」というものでした。

イエスの栄光にあずかるためなら、彼らはどのような苦しみにも耐える覚悟ができていたのでしょう。二人の弟子は39節で「できます」と答えます。

「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」とおっしゃいましたが、イエス様は報いとしての地位を彼らに約束しませんでした。そして「定められた人々にゆるされる」とおっしゃいました。「神がお決めになることだ」という意味で、それはあなたにもわたしにも関係ない、と言うのです。

(ヨハネの最期は聖書に伝えられていませんが、ヤコブは後に殉教したと伝えられています  使徒言行録12・1-2)。

 他の10人は腹を立てます。自分たちも同じようなことを考えているのに、ヤコブとヨハネに先を越されたからです。 そうでなければ腹を立てる必要はありません。

 そこでイエス様は弟子達を呼び集め、他者に愛をもって使えるという教えを再度たたき込みました。 「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た。」

 しかし、神の国での権能は、他者が必要としていることに、謙遜に仕えることで行使されます。イエス様は夜遅くまで様々な病気を癒したり、長時間群衆に教えたり、町から町へ福音を宣教して歩いたり、人々の悩みに耳を傾けたり、と言った模範を示しました。

 イエス様は報酬を求めず、分け隔てをせず、何も要求しませんでした。イエス様は他者のために存在する人として生きました。そして弟子達の足を、自分を裏切る事となる者の足をも洗うことで、弟子達に、仕えると言うことの最高の模範を示す日がやがてやってくるのです。

 幸い教会ではこのイエス様の教えを生きようとする信者さん達の姿を多く目にします。
大学の校長であった人でも、病院の理事長であった人でも献金を勘定し、身分の隔てなく全ての人が謙虚に教会活動に奉仕しています・・・。そしてその気になれば、家庭、職場、学校、その他何処ででも、わたしたちも、仕えるキリストの姿に倣うことが出来ます。そしてそれがキリスト教信仰の奥義であるとおもいます。