司祭の言葉 3/3

四旬節第3主日 ヨハネ2:13-25  

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「イエスの言われる神殿とは、ご自分のからだのことだったのである。」

わたしたちは、主なる神への感謝と賛美とともに、過ぎた一週間のすべて、疲れた身体、乾いた魂をも携えて、主の神殿であるカトリック教会のミサに集まります。ミサで、わたしたちの神なる主イエス・キリストにお会いできるからです。

ご復活の主イエス・キリストは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」(マタイ28:20)と仰ってくださいました。わたしたちには主のこのお約束だけが頼りです。主だけが、困難の多い日々の生活を生きるわたしたちの唯一の望みだからです。

そのようなわたしたちの思いを、主イエスは誰よりも良くご存知です。そして、主ご自身、わたしたちとの出会いを心から願ってくださっておられると信じます。その主にお会いさせていただくために、わたしたちは教会に集います。とくに教会のミサに。みことばとご聖体の内に、主イエスご自身がわたしたちとともにおられるからです。しかし、旧約の時代、人々はエルサレムの神殿に主なる神を訪いました。

今日の福音は、そのエルサレム神殿でのことです。主イエスの「宮清め」と呼ばれてきた出来事です。これは、ヨハネによる福音によれば、主の宣教のご生涯の比較的早い時期のこととして伝えられています。が、この事件の背景には、当時のエルサレム神殿の非常に深刻な問題がありました。

神を呻き求める人々、神に依り頼む他に生きる術も望みもない多くの人々が、神に見(まみ)えることを一途に願って訪れるエルサレム神殿。しかしその神殿が人の罪によって汚され、もはや神を礼拝するに相応しい場では無くなっていました。

神殿が罪に汚され、救いを求める人々から神との出会いの「場」が奪われることによって、多くの人々が救いを得られないままに空しく命を終えて行かざるを得ない。このことに、主イエスは強く心を痛め、激しく憤っておられるのです。

同時に、そしてだからこそ、この時主イエスは、わたしたちの救いのために父なる神から託された神の御子としてのご自身の使命を、わたしたちに明確にされます。

それは、人の手によるエルサレム神殿に替えて、主イエスご自身を霊と真理による新しい神殿として神と人とにお捧げになられる。そのようにして、神と人との聖(きよ)い出会いの「場」を、ご自身において再びかつ永遠に保証してくださることです。

加えて、御子である主イエスご自身を、その神殿で捧げられるべき罪人の贖いの犠牲として父なる神にお捧げくださることです。罪に汚された地上のエルサレム神殿の現状を前に、それ以外にわたしたちの救い、神と人との和解が回復される道はないからです。事実、福音はこのことを、後に主の十字架と復活として語ります。

ただしその前に、福音は、当時エルサレムの神殿から疎外されていた多くの人々と主イエスとの出会いを伝えます。例えば、サマリアの女性。酷暑の中の水汲みのように報われることのない、いつ終わるともしれない虚しい日々。誰にも目を留められず、また誰にも心を開く事も出来ず、やり場もなく癒される術もない肉体の疲れと魂の渇き。彼女は、心底から魂を癒してくれる命の水を求めて、真の神を求めます。エルサレム神殿は彼女には縁遠い。しかし、神にお会いしたい。神による他に救いはないからです。彼女は自ら担うに重すぎる彼女自身を神に託したいのです。

わたしたちは、このサマリアの女性の魂の渇きが、痛いほどわかります。なぜなら、彼女はわたしたち自身だからです。(ヨハネ4:1-26)

この女性に、主イエスは実にご自身の方からお会いくださいました。この女性のために、主ご自身が神殿、さらに神ご自身となってくださるために。さらに、神なる主ご自身がこの女性の捧げるべき神への贖いの犠牲となってくださるために。しかしこの女性の主との出会い物語は、実はわたしたち自身の物語ではないでしょうか。

もう、他のどこをも、他の誰をも尋ね廻らなくてよいのです。乾き切った魂の癒しを求めて井戸から井戸へと尋ねることは、もう終わりです。なぜなら、今ここに神なる主イエスがおられる。わたしたちのためにご自身のからだを神殿とし、さらに贖罪の犠牲としてくださる主ご自身がおられるからです。みことばとご聖体の内に。

「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧。あなたをおいてだれのところに行きましょう。」(ヨハネ6:68,69)

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。