司祭の言葉 2/18

四旬節第1主日 マルコ1:12-15

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先の水曜日、「灰の水曜日」から四旬節に入りました。当日のミサで、皆さんの頭ないし額に灰を授けさせていただきました。聖書では、灰を頭に被ることは、神のみ前での懺悔と回心を表します。この心で、四旬節の期間を過したいと願います。

四旬節の40と言う数字は、主イエスが、荒れ野で「40日間、サタンから誘惑を受けられた」ことに因みます。「悪魔」とも訳されるへブル語“サタン”は、「(神からわたしたちを)引き離す者」ないし「(わたしたちを神に)背かせる者」を意味します。

ところで、今日のマルコによる福音は不思議なことを伝えていました。がイエスを荒れ野に送り出した」、というのです。“霊”とは「神の霊」つまり「聖霊」です。つまり、主イエスを荒野の試練に導き出したのは、「サタン」ではなく、「神の霊」であったというのです。

つまり「神の霊」とは、主イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた時、天の父なる神から与えられたのことです。「(イエスは)水の中から上がるとすぐ、天が裂けてが鳩のように御自分の上に降って来るのを、ご覧になった」と今日の福音の直前にマルコが伝えている通りです。そのつまり「父なる神の霊」・「聖霊」が、御子キリストを荒れ野の試練に導き出したというのです。

なぜなのでしょうか。しかし、そうであれば、荒野で主イエスの受けられた試練は神のみ旨によるものであり、それを通して父なる神が主において成し遂げてくださる、わたしたちの救いのための大切なご計画があるということに違いありません。

ところで、今日の福音が語る主イエスの受けられた「サタンからの誘惑」は、実は、わたしたち自身が繰り返し「サタン」から受けている「誘惑」なのではないでしょうか。わたしたちは、大切な命や知恵や力を含めて、神と人とに仕えて生きるために過分な恵みを神から受けています。しかし、サタンはわたしたちに神から受けた大きな恵みを当然のように思わせ、むしろ不満をさえ抱かせ、さらに神から与えられた知恵や力の恵みを用いて「神を試し、神に背き、神から離れる」ようにと誘います。

日本語にも「受けた恩に仇(あだ)で報いる」ということわざがあります。もちろん、そのように振舞う者は人ではありません。同様に、神から受けた恵みによって神に背くのであれば、もはや人とは言えません。従って「サタンからの誘惑」とは、もしそれに屈すれば人が人でなくなってしまうような「罪への誘惑」ではないでしょうか。

そのような、実際わたしたちが受けている「サタンからの誘惑」の一切を、実は、主イエスが、わたしたちに先んじて、かつわたしたちに代って味わい尽くしてくださった。その上で、「サタンの誘惑」の一切に、主がわたしたちのために、前もって勝利を収めてくださった。これが、今日の福音が伝える、「神の霊」・「聖霊」に導かれての主イエスの荒れ野の40日の試練だったのではないでしょうか。

ところで主イエスは、荒野の40日の試練の直後から、神の国の福音の宣教をお始めになります。その中で、主は、「汚れた霊」に取り憑かれた多くの人々から「汚れた霊を追い出」して行かれます。「汚れた霊」・「悪霊」つまり「サタン」を追い出すことができるのは、「聖い霊」すなわち「聖霊」だけです。

そうであれば、主イエスの福音宣教とは、主がご自身の内に働かれる「神の霊」・「聖霊」によって、わたしたちから「汚れた霊」・「悪霊」つまり「サタン」を追い出し、わたしたちを、神から離れず、神と堅く結びつけてくださる救いのみ業です。

このように、主イエスは、荒野での試練において、「聖い霊」・「聖霊」によってわたしたちのために「汚れた霊」・「サタン」に対して前もって勝利を収めてくださいました。「サタン」に対する「聖霊」における主イエスの勝利。それが今日の福音です。

主イエスは、荒野での40日の試練の後、「汚れた霊」・「サタン」に取り憑かれたわたしたち一人ひとりから「聖霊」によって「汚れた霊を追い出し」、罪深いわたしたちのために、「汚れた霊」・「サタン」に対して、常に、そして永遠に勝利を収め続けてくださいます。それが、わたしたちに対する主イエスの福音宣教です。

ただし、主イエスの「聖霊」による「汚れた霊」に対する最後の勝利は、主ご自身の尊い自己犠牲である十字架とご復活、つまり「主の過越」を通してのみ勝ち取られ、わたしたちに成就するものであることを、わたしたちは決して忘れてはなりません。

四旬節第1主日の福音、荒野での「サタン」の誘惑に対する主イエスの勝利は、わたしたちのための主の十字架における最後の勝利を、明確に指し示しています。

父と子と聖霊の聖名によって。 アーメン。