司祭の言葉 2/21

四旬節第1主日 (マルコ1章12-15節)

2021.2.21春日部加須

 皆さんおはようございます。体調にお変わりございませんか? 司祭は今日も担当する教会の皆さんのために、一人でミサを捧げさせていただきます。
 先週の灰の水曜日から教会は四旬節に入りました。断食の季節です。昨年から二年続けて灰の式を行うことが出来ませんでした。聖週間の典礼も出来るかどうか予断を許しません。でも私たちは夫々自宅に居ながらも自分たちで、聖週間の務めを果たしましょう。灰の式を受けることが出来ませんでしたがもっと大事なことは金曜日の第一朗読の、イザヤの預言の言葉です。
 「葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと/それを、お前は断食と呼び/主に喜ばれる日と呼ぶのか。わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。あなたが呼べば主は答え/あなたが叫べば/「わたしはここにいる」と言われる。」(イザヤ58章5-9)

今世界中が新型コロナウイルスの脅威にさらされていますが、そのワクチンを貧しい人にもすべての人に届けようとの声が上がっています。金持ちだけが接種してもコロナを抑え込むことはできないからです。かつてこのような声の上がったことがあるでしょうか。今ようやく全人類が一体であることに世界は気付き始めています。
 四旬節には愛の献金が呼びかけられます。それは形を変えた断食です。教会に行けなくても忘れないようにしましょう。さて、福音のホミリア(解説)に入ります。

 12節で霊はイエスを力ずくで「荒れ野」に「送り出し」ます。・洗礼のとき以来、神の霊はいつもイエスの行動を導いています。 「送り出す」の原語は、「追い出す」と言う動詞です(エクバッロー)イエスが悪霊を「追い出す」時にも使われる言葉で「力ずくで追い出す」といった強い意味を含んでいます。
 「荒れ野」は水や食べ物が欠乏している場所で、生きるのに厳しい場所です。しかし、イスラエルの民は40年間に及ぶ荒れ野の旅の中で、神はモーセに命じて岩から水を湧き出させ、天からは「マナ」(これはなんだの意)と呼ばれる不思議な食べ物を降らせて、民を養い導き続けました。そこは試練の場所でしたが、その荒れ野の中には、神との親しい交わりがあったのです。

 イエスはどうしてこの荒れ野に導かれたのでしょうか
「40日間留まり・・と野獣と一緒におられたが」  その間にあるのが
「サタンから誘惑を受けられた」という言葉で・・ここに重点が置かれています。

 イエスを守ろうとする天使と、イエスを滅ぼそうとするサタンの戦いの激しさを、この構成が如実に示しています。イエスはサタンの試みを受ける事によって、神とのかかわりを確認し、その使命を自覚します。・・・そして福音の宣教に入ります。
 ジーザスというイエスの生涯を描いたビデオのなかでサタンの誘惑の場面があります。  その中でサタンはイエスの名において戦争をする十字軍の場面や、十字を切りながら戦う兵士、イエスの名を呼びながら死んでゆく兵士たちの姿を描きます。そして、十字架にかかっても戦争はなくならない、無駄死にだ。平和は権力を握れば実現できる・・といいます。またスラムに生活する人たちの姿を映し出しながら、自分を礼拝すればこの世の富を与える、そうすれば彼らにパンを与えることができる、自分の力をつかえ、これらの意思をパンにしろとも迫ります。
 イエスの苦しみは、人々は十字架の意味を理解し、神に立ち返るのか、

 イエスの十字架によって人々はその生き方を変えるのか、
 罪の許しを信じ、互いに愛し合うようになるのか、無駄死にではないのかというものです。

イエスの十字架を信じる者は、このイエスの苦しみに対して、無駄死にではなかったと証明することが求められるのです。   国際情勢を見れば、問題山積です。
 福音を信じるとは、平和をつくることです。愛を信じることなのです。

「天使たちが仕えていた」  
 エリシャと従者のいる町がアラムの兵馬に取り囲まれたとき、おののく従者のためにエリシャが主に祈ると、主が従者の目を開かれます。その時従者は、火の馬と戦車がエリシャを囲んで、山に満ちているのを目にします。(列王記下6の17)
 イエスが戦っているとき天使たちが傍にいたように、私たちの試練の時も、主は私たちの傍に天使を送っていて下さる・・自分一人ではない、そう信じて頑張りたいと思います。