司祭の言葉 2/14

年間第6主日 マルコ1章40-45節

 「重い皮膚病」は、以前は「らい(病)」と訳されていましたが、1996年の「らい予防法」廃止後は「重い皮膚病」と訳されています。 この方々の苦しみは想像を絶するものでした。 (レビ13章45-46節には次のように記されています)。
 重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。

「宿営の外」は共同体から切り離された場所です。会堂に行き、ともに神を賛美することもできませんし、隣人とのかかわりも断たれます。肉体的な苦しみに加え、精神的にも追い込まれ、絶望的な状況に立たされます。
 (映画、ベン・ハーでは、母親と妹が思い皮膚病にかかり、宿営の外、深い谷底の洞窟の中で同じような病気の人たちと施しもので生活している場面が描かれています。
 イエズスマリアのみ心会の会員だったダミアン神父は、アメリカ合衆国ハワイ州モロカイ島で、当時誰も顧みなかったハンセン病患者たちのケアに生涯をささげ、自らもハンセン病で命を落としました。当時、患者たちは見つかるとすぐモロカイ島へ隔離され、そこで誰からも世話されずに亡くなっていくのが運命だったのです。)

 「深く憐れんで」(スプランクニゾマイ)は、「はらわたを揺さぶられる」という意味の言葉です。しかしながら、古い写本の中には「怒って」となっている写本もあるのです。
 書き写す際にわざわざ難しく書き換えることは考えにくいと言う理由で、本来「怒って」だったのではないか、と考える神学者もいるようです。イエスはラザロが死んで墓に行く途中「憤った」と述べられています。
 イエスはこの世に存在する悪とその働きに対して、強い怒りを覚えたのです。
 イエスは目の前の苦しむ人との出会いの中で心を揺さぶられ、その人を助けます。

 主はまたモーセに言われた、
 「らい病人が清い者とされる時のおきては次のとおりである。すなわち、その人を祭司のもとに連れて行き、祭司は宿営の外に出て行って、その人を見、もしらい病の患部がいえているならば、(中略)清められる者はその衣服を洗い、毛をことごとくそり落し、水に身をすすいで清くなり、その後、宿営にはいることができる。(レビ記14章)
 「祭司に体を見せる」ことは社会復帰のための条件でした。肉体的にいやされても、祭司によって清いと宣言されなければ、もといた村や家族のところに帰ることはできないのです。
 司祭に見せるようにと言われたイエスは、ただ単に彼の肉体的な病をいやすだけでなく、彼が社会との絆(きずな)を取り戻すように、背中を押したと言うことが出来ます。

 イエスは絆を取り戻すために来ました。神と人々との間の失われた絆を取り戻すために。人間と自然との絆、調和を取り戻すために。イエスの十字架による贖いは、まさにそのためでした。
 話はちょっと飛びますが、先週2/7のNHKスペシャル「飽食の悪夢」はショッキングでした。飽食の結果、水と食料の危機(クライシス)が迫っていると言うのです。あと10年が残された時間で、この間に自然との調和を取り戻さないと、取り返しがつかなくなると。その前に持続可能なシステムを探し出す必要があるというのです。
そのためには、健康にも地球環境にも理想的な食事の仕方、プラネタリーヘルスダイエットを推進して、飢える人を無くす必要があると述べていました。
大豆で作った人造肉は、同じ量の牛肉に比べ、水を90%土地の93%エネルギーの50%を削減でき、温室効果ガスを89%減少するとも述べていました。

 イエスの弟子である私たちは、この地球の調和のために、イエスが命を懸けて贖った世界が滅びないように、力を尽くすことが求められていると思います。