司祭の言葉 7/18

年間第16主日B年

 イエスは弟子を集め、派遣し、報告を聞き、いま休ませようとしています。弟子たちが疲れていると感じたからです。そのうち肉体が疲れるだけでなく、精神的にも疲れてしまうと思われたからでしょう。 今日の社会の中で疲れ切ってしまう人がたくさんいます。空っぽになる。 空回りする。 喜びを失ってしまう等など。
 イエス様はそのような時、まかせきることの出来ないことをかんじます。与えるものを持っていなければどうして与えることが出来るでしょう。

 ここにクリスチャンたちのリズムが示されています。一週間人々の中に生活した私たちは、週の初めに神の前に出てみ言葉に触れ、聖体祭儀で主の体を受け、派遣の祝福を受けてまた人々の中に、み言葉を伝え人々を癒すために出かけてゆくのです。
 昔はラテン語で、イテ ミサ エスト 行きなさい、あなたがたは派遣されています・・・と言って信徒を送りだしました。
最後の祝福は、そのための派遣の祝福と呼ばれているのです。

 イエスは自分達だけで人里離れたところへ行くように命じます。 = それは、神との交わりの場所です。でも、その時間は取れなかったようです。
 34節の「深く憐れみ」は、ギリシア語では、「スプランクニゾマイsplanknizomai」という言葉です。「目の前の人の苦しみを見たときに、こちらのはらわたがゆさぶられる」ことを表します。相手の痛みをわがことのように感じて共感する言葉で、イエスの愛の行いはいつもここから来ています。そしてイエスも弟子たちも働き続けたのです。

 あるとき、夢を見ました。「危ない危ない、早くブレーキを踏んで・・」と思っているうちに、前を歩いている人の方に車がだんだんよって行き、腕に接触してしまいました。となりの席の運転手をみると居眠りしています。示談の為に喫茶店を指示されました。そこに行く途中後ろの席の方が、神父さんたいしたことが無くて良かったですね、気をつけてください・・・といいました。それで運転していたのは隣の人ではなくて自分だったのだと気がつきました。夢でしたけど神様から、「あなたが疲れているんだよ」そう言われたように思いました。

 いま長江司教様を囲んでいたような時間がほしいと思います。司祭に成りたてのその頃は、ともに祈り、時間を忘れて宣教について分かち合い、激論を交わしました。
 先日、ボランティアの方が食事作りに来てくれました。 その日は私が食事の準備をしなくてもよいので助かります。そればかりか、おしゃべりをして疲れを忘れます。主に信仰の話です。そこで小生は大きな力をいただきます。

 ほんとうに皆さん疲れています。新型コロナウイルスで世界中が混乱しています。ミサに出るのも制限されている状況ですが、疲れたら十分に休みを取り、み言葉に触れて力を受け、主のお体に養われて派遣の祝福を受け、また前に進みましょう。