司祭の言葉 3/7

四旬節第3主日 (ヨハネ2章13-25節)

 今日の福音は、イエスの宮きよめの出来事です。この場面だけ見ると第一印象としてはイエスの激しさに驚かされます。
 セウイホームでは入所したてのころ、食堂のテーブルをひっくり返した女の子がいます。
 ロッカーを倒し蹴り破った男の子もいます。
 神学生の時監督をしていた上級生の中には、怒りっぽくやたら机の脚を蹴り飛ばす人が居ました。イタリア人で面白くない事があるとマケーと叫んで机の脚をけるのです。サッカーも上手な人でしたけれど。
 小生も、部屋中の物をたたき壊したい衝動に駆られた事があります。でもそのあとそれを片づける自分を考えるとバカらしくなって思いとどまります。

 いろいろな怒りがあります。しかしながら、正当な当然といえる怒りがあります。
 まもなく11年3月11日の大地震から丸10年になります。大地震や津波は天災です。これを止めることは出来ません。しかし、福島原発の大事故それはまさに人災でした。ヨーロッパでは1999年、フランスの原発が洪水で外部電源を一部喪失したのをきっかけに、アメリカでは2001年の同時多発テロ事件をきっかけに原発の電源喪失対策が強化されたのに対して、日本はこうした対策を怠ったといいます。
 今ミャンマーでは、軍部によるクーデターに対して、正当に選挙で選ばれた代表を開放せよと、3週間以上も市民の抗議が続いています。

 イエス様の怒りは何だったのでしょうか。両替も売られていた動物たちも、神殿にささげられるために必要なものだったのです。

 まず両替を見てみましょう。パレスチナでは普通の用途のためには、ローマ ギリシャ エジプト ツロ シドンなどの、全ての種類の貨幣が使われました。しかしながら、当時神殿に納めるお金は ガリラヤのシケルか神殿のシケルでなければなりませんでした。
 宮の納入金は 半シケルでした。1シケルの半分ですが、2デナリに相当しました。
神学者のバークレーによれば、ある人が2シケルの価値のある銅貨を半シケル4枚に両替してもらおうとすると半シケルの半分 1デナリほどの手数料をとられたといいます。労働者の一日の賃金分です。

 また、律法によれば犠牲に供せられる動物はみな完全で傷が無く汚れない物でなければなりませんでした。 神殿当局は犠牲に供せられる動物を調べるために検査官を任命しました。礼拝者が動物を宮の外で買ったとすると、その動物が傷の無い相応しいものであるかどうか検査されますが、ほとんど例外なく不合格になったといいます。

 そして問題は、鳩は宮の外では一つがい500円ほどであったとすれば、宮の中ではその20倍ほど1万円もしたと言うことです。神殿側が暴利をむさぼっていたのです。

 さらに、商売が行われた場所にも問題があります。商売は異邦人の庭で行われていました。ユダヤ教徒に改宗したものであっても、異邦人の礼拝できる場所はここだけでした。それより奥には入れなかったのです。唯一礼拝できる場所が、牛や羊やハトを売る人々の声と動物たちの鳴き声で、静かに祈ることのできる雰囲気はありませんでした。

 そしてさらに、イエスは次の言葉を思い浮かべていたと思われます。ゼカリヤ書の結びのことばです。
 「その日には、(中略)エルサレムとユダの鍋もすべて万軍の主に聖別されたものとなり、いけにえをささげようとする者は皆やって来て、それを取り、それで肉を煮る。その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる。」(14の21)

「鍋」は日常生活の象徴ですから、その日(救いの完成の日)には、日常生活のすべてが聖化されるので、もはやエルサレムの神殿で行なわれる生贄の儀式は不必要になる、だから生贄の動物を売る商人もいなくなる。つまり日々の生活が神との出会いの場になる。礼拝が神殿ではなく、どこででも行われるようになる・・・と宣言したのです。

 いま私たちはそれぞれの地域で集まり感謝の祭儀をしています。新型コロナウイルスの緊急事態宣言が解除されるまで、ミサに参加することはできませんが、自宅でもみ言葉に触れ、神に出会うことが出来ます。祈ることが出来ます。
 イエスはそのような思いを胸に、宮の清めを行ったのかもしれません。