司祭の言葉 7/4

年間第14主日B年

 大工の子は大工、そんな時代です。イエスを迎えたナザレの人たちは、イエスをよく知っていると思い込んでいました。会堂で聖書の巻物を持ち出す老人も、会堂司も、会堂に集まった人たち皆が、かつてのイエスを知っていました。村に住んでいた皆が家具の修理や家の修理の依頼を、ヨゼフのもとに出し、イエスとヨゼフが力を合わせて仕事をしていたのを知っていました。だから、現在のイエスを受け入れることができませんでした。

 そこに、村人のイメージにそぐわないメシアの出現です。そして言います。大工ではないか。 技術者・便利屋・労働者であったがため、軽蔑しました。
 しかしそれはイエスの栄光なのです。神が地上に来られるとき、例外であろうとしなかったのですから。
 人々の思っていた救い主の出現は、壮大な、みんなを驚かせるような演出の中で行なわれるはずでした。 仲間内の一人であってはいけなかったのです。 髪の毛に鉋屑をつけて働いていた青年であっては幻滅だ、というわけです。(降誕の時もそうでした。認めたのは心の純朴な羊飼い達だけでした。)
 「彼はご自分の家にこられたが、その人々は受け入れなかった。」(ヨハネ1ノ11) 
 イエスの敵は、イエスを十字架に付けて当たり前だと思っていました。
 身内は気が触れたと思い、取り押さえ、拘束衣をつけさせようと思いました。

 私たちも、イエスを知っているけれども、認めないことが多いのではないでしょうか。神のイメージを自分でつくってそれに固執し、もしそのイメージと違う神が現われたら、それを迎えようとしない。
 神を外に捜し求めていませんか。  私たちの中にいるのに――
 神は遠くにいると思うので、目を細めて探ります。私たちのそばを通っているのに――
 キリストは、昇天の日にこの地上から去ってしまったのではありません。
 姿を消すのと 立ち去るというのは、別のことです。
立ち去れば――→当然不在となります。姿を消したというのは、かくれた現存・・を思わせます。
 ただ、姿を隠しただけ――あたりまえの男に変装してここにいるのです。

 祈りの時に、気を散らしました・・・ 良くそんな告解を聞きます。そんなことはたいしたことではありません。道を歩くときに こそ、気を散らしてはいけないのです。キリストとすれ違っているかも知れないのですから・・

 あまりにもよくしった顔ばかり――夫の、妻の、子どもの、姑の、病人の、家なしの、身なりの悪い人の・・・でもそこに、隠れたキリストがおられるかもしれないのです。