司祭の言葉 8/8

年間第19主日B年 わたしは命のパン

 皆さんこんにちは、お元気でしょうか。新型コロナウイルスの猛威は衰えることなく、8月31日まで埼玉県にも緊急事態宣言が出され、それまで教会の公開ミサも中止となりました。聖母被昇天のミサも非公開となり、残念な思いでいっぱいです。ホミリアを送りますので、今日の福音の理解のためにお役立てください。日本の教会は6日から平和旬間に入っています。司祭は自室で皆様のご家庭の平和と、世界の平和のためにミサをお捧げ致します。心を合わせてお祈り下さい。

 今日の個所は、「わたしは天から下ってきたパンである」とイエス様が言われた言葉をめぐる、村人の反応が取り上げられています。どうして「天から下ってきた」などと言うのだろう、昔を知る村人はイエスの言葉に躓きます。

 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」6の35

 「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」6の63
 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。」6の53

 ここではイエスの言葉が命と言われ、またその肉を食べその血を飲むことで永遠の命を得ると言われています。

 命の糧であるパン・・それをわたしはどのようにいただくのでしょうか。
 ミサは主の食卓といわれています。私達はこの食卓で永遠に生きる糧をいただきますが、それは聖体拝領によってだけではありません。(もしかしたら、ご聖体だけが命の糧であると思ってはませんか?)

 ミサはことばの典礼と感謝の典礼とにわけられています。このことから、ミサには2つの食卓があるといわれているのです。
 63節では「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」とあります。
55節では「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物」と述べられています。

 49・50節では「荒れ野で食べたマンナ」と「天から降ってきたパン」が対比されます。モーセが与えたマンナを食べたものは死にましたがイエスがもたらすパンを食べるものは死ぬことがありません。
 イエスのパンとは直接的にはイエスが語る「神の言葉」を指します。
 しかしそれだけではありません。イエスは自分を死に引き渡す事によってこの世に命を与えるために来たのです。
 「わたしが与えるパンとは,世を生かすためのわたしの肉のことである。」と述べるときには、み言葉ではなく、ご聖体を表していると思われます。
 神の言葉とご聖体の双方が、命のパンであるといわれているのです。

 教会のながい伝統の中で、聖体の秘跡をもっとも聖なる秘跡として大切にしてきました。毎日曜日ミサに参加し、出来るだけ聖体拝領することが勧められました。しかし今コロナ下の中で、公開ミサが中止となりご聖体を受けることが出来ません。
 でもちょっと待ってください。み言葉があるではないですか。今日のみ言葉を読みそれを黙想する。そこでイエスの命をいただくことが出来るのです。

 コロナ下でも皆さんの家庭の中でも、み言葉と言う命のパンは、ミサに参加しなくもいただけるのです。ミサに与るわたしたちは、み言葉とご聖体という二つの形でイエスキリストご自身をいただいています。

 ことばの典礼は単にミサの導入、または前半ではありません。静かな雰囲気を作るための手段でもありません。朗読台は、み言葉を聞いてイエスキリストご自身を命のパンとしていただく、もう一つの祭壇なのです。
 ミサに遅れてくる人が多いのは、イエスキリストが命のパンであるという意味を、未だ良く理解していないからではないでしょうか。遅れてきて、又息づかいも整わないでいるうちに、聖書の朗読が終わってしまう。遅れてミサに来るとき、イエスの命の言葉を、命のパンを勿体ないことに私たちは頂き損なっているのです。

 今日のみ言葉を黙想しながら、ミサに参加できなくても、お家でイエスの与える命のパンをいただいてください。
 主の恵みが皆さんのご家庭のうちに豊かに注がれますように。ハレルヤ。