司祭の言葉 9/19

年間第25主日(マルコ9:30-37)

 皆さんお元気でしょうか。今日から公開ミサが行われるはずでしたが 、緊急事態宣言が延長されたので、今日のミサも非公開となりました。司祭は春日部教会の皆さんを覚えてミサを捧げますので、どうぞ心を合わせてお祈りください。

 このところなかなかチャンスがないのですが、小生は映画を見に行くとき、いつも席は一番後ろに座ります。最近の映画館はすいているのですが、それでも後ろに人がいると落ち着かないのです。・・やはり自分にとって一番いい席を取っているのだろうと思います。
 教会においでの皆さんも、すわり心地の良い場所があって、いつもそこに座るという事になるのではないでしょうか。観劇では前の方がS席で皆さん前に座るのを喜びますが、教会ではどう言う訳か皆さん後ろを好みますね。教会でも前の方がイエス様に近いのだからS席だと思うのですが・・・。

 今日の福音朗読は、二度目の「死と復活の予告」から始まっています。「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」(9・32)とありますが、一度目の予告のあとに弟子の代表であるペトロが「サタン、引き下がれ」(8・34)と叱られたあとのことですから、弟子たちが何も尋ねられないのはよく分かります。また叱られるのではないかと思えば、尋ねたいことも尋ねられないものです。


 弟子たちはそれでも「だれがいちばん偉いか、良い場所をとるか」を途中で議論していました。・・・メシアについて理解していなかったからです。

 自民党の総裁選の立候補者が4名でそろいました。誰も過半数が取れず、決選投票になるだろうと予想されていますが、総裁が決まれば組閣が行われ、誰がどのポストに就くか、色々取りざたされることでしょう。だれがボスなのかという議論は人間に限ったことではありません。猿山のサルたちも、だれが一番よい場所をとるか、ボスにふさわしいかをいつも争っています。
 冷めた言い方をすれば、弟子たちが熱中していた議論は、サルがいちばん問題にしている程度の話題だったわけです。「途中で何を議論していたのか」というイエスの言葉は、「早くそんな愚かな議論から離れなさい」と言っているかのようです。

 そこでイエスは、人間が最も高められるような形でいちばんを目指す道を示そうとされました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(9・35)。 そして、その高い理想は自分たちの足下に、大人たちにまとわりつく子どもたちを受け入れることにあるというのです。

 先日、幼稚園の門を入った三歳児が、後ろを振り返った後、急に手提げ袋を放り出し、家に帰りたいとぐずり始めました。元気よく門をくぐり、お母さんに手を振ろうとしたら、お母さんは後ろを振り返らず行ってしまったのです。そして先生が来て抱き上げなだめて落ち着きました。子供はちょっとしたことで機嫌を損ねたり、泣き出したりします。
 イエスは「一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた」のでした。(9・35)「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(9・36)。

 持っている力を見せつけるような人になるのではなく、小さな子供、つまり弱く小さな相手を寛大に受け入れる人になるように・・と教えられたのです。
 イエスの時代、律法を守る人間かどうかが人の評価の基準でしたから、子どもは「無能力者」の代表のようなもので、子どもであること自体には価値がないと考えられていたと言います。そのような考え方は、現代でも皆無ではありません。
 ユニセフによれば、人身売買によって兵士にされたり、強制労働や強制結婚、臓器売買の犠牲にされたりする子供の事例が、各国から報告されているそうです。

 小生は小さな子供が苦手です。小さな子供の動きにはハラハラさせられますし、小さな子供を受け入れるのは大変です。
 でも、イエス様の教えはこうなのです。
 子どもを受け入れてみること。そこからすべてが始まります。小さな子どもに大切に接してみること。愛情深く謙虚になって相手に仕えてみることが、ねたみや利己心から脱却するための手がかりとなるのです。

 迫害されている弟子や助けを必要としている小さな人々と、「子どもを受け入れる」ことはつながっています。この小さな人々を大切にすることこそが、イエスと神を大切にすることだと、神によって評価されるのです。

 イエスがここで言われるのは私たちのために何か出来る人々を求めるのではなく、
私達がしてあげられる人々を求めるべきであるというのです。
 イエスは同じ事を他の場所で「これらのいと小さき兄弟の一人にしたのはすなわちわたしにしたのである」と表現しておられます。
「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(9・36)。

肝に銘じておきましょう。

皆様のご家庭の上に、主の恵みが豊かに注がれますように ❕