司祭の言葉 1/9

主の洗礼

 今日の福音の、語られている状況を見てみましょう。荒野で呼びかける声があり、これに応える動きがありました。ユダヤ人は洗礼について知っていました。異教からの改宗者は洗礼を受けることが必要だったからです。でもユダヤ人自身が悔い改めの洗礼をうけることは無かったのです。しかしこのとき、人々の心は回心に向かって動いていました。
 イエスは、そこに神の意志をみました。そしてみんなと同じところに立つために、洗礼を受けました。

 イエスが洗礼を受けたという事実よりも、大切なのは、その後に起こったことです。

 (a)天が裂け、 (b)聖霊がイエスに降(くだ)り、 (c)「わたしの愛する子」という声が聞こえました。
 

 いま、そしてこれから何をなすべきか、
 父なる神の応えです。
「天が裂け」というのは、神がこの世界に介入してくることを表す表現です。
聖書では洗礼の箇所と、受難を前にした山の上でモーセとエリヤが現れたときに、声が聞こえています。
 イエスのこれからの行き方を、それでいいのだと、神が承認したことを示しています。

 イエスは弟子たちに「あなたがたは私が飲む盃を飲み、私が受けるバプティスマ(洗礼)を受けることが出来るか(マルコ10・38参照)、」と言われたことがあります。それは十字架と死を意味していました。かくして、人々とともに神のいのちへと立ち上がる。この洗礼の出来事の中に、イエスの生き方全体を表す象徴的な意味を感じ取ることができます。  

 さらに洗礼者ヨハネの言葉の中にも・・・
 ヨハネは自分の立場について「自分はメシアではない。来たるべき方を指し示す荒れ野で叫ぶ声」・・で、それが使命だと言ったのです。
 ヨハネの弟子たちはうろたえます。その後多くの弟子がヨハネからイエスの方に移って行くのを見たからです。

 (ヨハネによる福音 3の22から30) 
「その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。
 ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。

 彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。
 わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。
 花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」                      

 ヨハネは、自分の立場について「自分はメシアではない」「自分はあの方の前に使わされたものだ」・・と明言します。自分の役割についての、確固たる確信を持っていたのです。

 私達はどうでしょうか、自分の立場について確固たるものを持っているでしょうか。

 私には一つの大きな失敗があります  厚労省の担当から社会福祉法人の立て直しを頼まれ理事長を引き受けたときのこと、前理事長も了解していたはずなのですが、実際改革に手を付け始めると・・・改革に対する前理事長の抵抗もあり・・結果的には、小生がうつ病になりました。 そして友人も失いました。
 自分は引っ張る側ではなく 支える側と理解していたのですが、頼まれて引っ張る側になった、・・・それが失敗の原因でしょう。  

 映画やドラマにおいても、主役と脇役があり・・・名わき役がいて主役は輝けますし、自分も輝けるのではないでしょうか。

 自分の得意なところは何か、今日の福音の、特にヨハネの態度に学ぶところは多いとおもいます。

 そして、教会の役割はどこにあるのでしょうか。
 教会が立派になることではないと思います。
 それは、ヨハネのように・・イエスを指し示すこと、イエスの福音を伝えることにあると思います。
 さて、それでは、どう福音を伝えましょうか。ともに考えてみましょう。

司祭の言葉2021

司祭の言葉 1/2

主の公現

 今日は主の公現の祝日です。本来は1月6日ですが、日本では1月2日から8日までの間の主日に祝われています。平日に祝うのは難しいからです。 「公現」はギリシア語で「エピファネイア」、「輝き出る」と言う意味です。イエスが神の子キリストとしてユダヤ人以外に現されたことを記念します。
 蛇足ですが、博士たちが贈り物をしたことから、フランスやイタリアまたメキシコなどでは、この日にクリスマスのプレゼントをするそうです。

 「占星術の学者」はギリシア語では「マゴスmagos」です。メディア(今のイラン)の一部族であり、祭司階級だった「マギ」に属する人の意味です。

 ご公現祭というのはユダヤの中に生まれたイエスという方が,ユダヤ人でない人にも開かれているということを公言する祝日です。教会は全ての人のために開かれているということを祝っているのです。初代教会にとって,これはとても大事なことでした。これまでのユダヤ教はユダヤ民族宗教の域をでず、ユダヤ人の宗教にとどまったままだったのです。
 キリスト教はその点イエス様のお言葉にある通り、宣教をその使命として、全世界に開かれています。

 さて、キリスト教は遠藤周作の小説に見られる通り、日本の土壌の中にしっかりと,植え付けられていくものであると思うのですが、多くの多国籍の信者さんが教会の中にいることを考えますと、普遍性・カトリックということを,いつも意識する必要があります。

 さいたま教区では日本人信徒の何倍もの外国人信徒がいます。  その人たちが日本の教会の中にどのように受け入れられていくのか,彼らを通して日本の教会が今からどのように変わっていくのか、そこを注目してゆくことが必要であると思います。

 神学生もメキシコ人、韓国人、ベトナム人がいます。司祭達もブラジルに研修に行ったり、台湾に研修に行ったりしています。日本人に帰化して働いている司祭方もおります。
 これからの宣教は、このような現状を踏まえたものになってゆくはずです。

 新しいものをどのように受け入れていくのか,さらに日本の文化をどのように守っていくのか,考察すべき課題は沢山あります。
 川口教会では教会学校の子ども達はほとんどベトナム2世3世です。福音も毎日曜、ベトナム語タガログ語英語でも朗読されます。第4日曜には説教も、ベトナム語と日本語で行われています。この現実の前に,日本の教会はどういう路線をとっていけばいいのでしょうか。
と同時に,インターネットで代表されるように、地球規模化(グローバル化)の時代にあって、日本の社会そのものが大きく変動しています。その中にあって,私たちはどのようなメッセージを社会に送り、あるべき教会の姿をどのように模索していくのでしょうか。
 今多くの教会がホームページで、自分たちの教会を紹介し始めておりますし、それらを見て教会に来られる方も増えています。大きな変化だと思います。

 今日の福音書の中で「ヘロデは恐れた」と言われています。「彼は不安を抱いた」とも言われています。先が見えないときに人は不安になります。
 正月、テレビでは厄払いのために宮参りをするように呼びかけ、不安をあおっています。ダイレクトメールで厄年のお知らせまで送られてきます。普段は信仰を持っていないような人でもこの時期、人は特別な気持ちになるようです。
 信者さんの家庭でも厄年に当たる信者でないお婿さんが、初詣に行ったなど聞いています。

 イエスという幼子がどうして不安の原因になったのでしょう。成長して政治的に権力を持ってきたときのことを考えて不安になったのでしょうか。

 ヘロデの不安は,先が見えないことに自分の頭で考えて何とかして問題を解決しようと焦ったことにあります。
 先週読んだマリアのやり方と比較すると何かがはっきりします。「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて,思い巡らしていた。」と聖書は書いています。

 ヘロデは自分の頭だけで,不安を何とか取り除こうとし、結果的には幼子たちを殺してしまいました。 他方、マリアは神のことばに信頼してじっくり考えながら,神様がして下さるだろうと思うことに頭を下げます。

 公現祭にあたり,2つの点を心に止めたいと思います。


1 私たちが信じているキリスト教は,どんな文化にも適応してきました。ですから、社会の中に市民権を持つまで,私たちはキリスト教のあり方を考える必要があるのではないかということ。

2 私たちも今の社会や教会ということに不安を抱いていますが、マリア様のように心に思い巡らして信頼する心をもつことが大切だということ。

聖霊が私たちを導いてくださいますように。

司祭の言葉 12/26

聖 家 族

 これまで聖家族を描く絵は多くの絵のヨゼフが、頭の薄い老人のように描かれています。何故? 私はそのような絵を見るたび、不思議でなりませんでした。

 そのわけがわかったのはヤコブ原福音書を読んでからです。書かれたのは2世紀半ば。・神の母、永遠の処女、マリアの誕生物語。正福音書以前の物語が書かれているから原福音書とよばれているのです。

 その記述=マリアのお母さんアンナとお父さんのヨアキムはマリアが3歳になったとき神殿に預けました。マリアは主の神殿で鳩のように保護されて、天使の手から食べ物を受け取っていたとあります。12歳になったとき祭司たちがどのようにマリアの純潔を守ろうかと協議し、祈っていますと、主の使いが現れ、ザカリアを召して、民の中で男やもめとなった人を集め、それぞれが杖を持ってくるように命じます。そして主が誰かにしるしを示されたら、彼女はその人の妻となるのだというのでした。するとその中の一本の杖から鳩がでてヨゼフの頭に舞い降ります。
 そのときヨゼフは「わたしには息子たちもあるし、年寄りです」といって断るのですが、神を恐れなさい、断ってはならないとさとされ、保護者となることを引き受けたというのです。

 この物語によりますと、イエスにはヨゼフの連れ子である腹違いの兄弟がいる、ということになります。 ヨゼフはマリアを引き取った後、、建築の仕事のために家を離れます。そして戻ってきてマリアの懐胎を知り、「私は彼女を主なる神の神殿から引き取ったのに、マリアを守らなかったといって、激しく泣きます」   
 (しかし、このときマリアは16歳であったといいますので、保護者として12歳のマリアを引き取っておきながら、建築のために4年間も家を留守にする事は考えられませんので、ここに大きな時間的な矛盾が見られます。)

 ヨゼフははじめ彼女が罪を犯したのかと思いますが、マリアの口からどうしてそのようになったか知らないとの言葉を聞き、「彼女の罪を隠せば律法に反することになるし、明らかにすれば罪の無い血を死の判決に引き渡すことになる。それでは密かに離縁しよう」・・そう決心するところへ神の使いが現れ、聖霊によって身ごもっていることを告げますので、ヨゼフは神を賛美し彼女を守護した。・・とあります。

聖書的考察

 きょうの福音の中で特別に注目したいのは、エルサレムに上るときには“両親”が主語であったのが、エルサレムから下るときには“イエス”に代わっていることです。それは、神の子としてのイエスの姿がエルサレム神殿で示されたからです。

 これは雨上がりの虹のように突然出現した、ひと時のさわやかな出来事です。このあと、時がくるまでイエスはナザレでふだんの
 生活に戻りますが、物語の主人公が両親からイエスへと移行し始めたことをこの主語の変化は示しているのです。

 イエスの不在に気づいた両親はエルサレムへととって返し、神殿でイエスを見つけます。神殿に居合わせた人々はイエスの賢い受け答えに驚嘆しますが、両親は驚き「なぜこんなことをしてくれたのです。」とイエスを戒めます。
 一緒に暮らしていない他人はかえってイエスの輝きを見落としはしませんが、子は親に従順であるべきだと思いこんでいる両親には、その輝きが隠されています。
 隠されているから「ご覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです」とたしなめます。この個所を読むたびに、拉致被害者の家族のことを思います。そしてマリアとヨゼフの不安と後悔を。

 次の節でイエスは「どうして私を捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」といって、神との関わりをはっきり述べますが、両親にはイエスの言葉の意味が分かりませんでした。
 天使ガブリエルを通してイエスが誰であるか知っているはずのマリアであっても、イエスの言葉が理解できずに、イエスをたしなめています。

 しかしマリアは「これらのことを全て心に納めていた」とも書かれています。言葉の理解はいちどきに終わるとは限りません。
完全に理解できなくとも、すべてを心に納め暖め続けること、それがイエスを知ることにつながるからです。       

 家族はできるだけ助け合って寄り添って生活します。
 家族は、同じ問題を一緒に考え、解決しようと努力します。
 わたしたちも、よく理解できなくても、できるだけマリアのようにイエスの言葉を心に納めるようにしたいものです。そうすれば、マリアの子供、イエスの兄弟として、聖家族の一員に加えていただけるでしょう。そしてイエスの祝福を豊かにいただくことができるでしょう。

 今日の社会には、家族関係の崩壊が見られます。
 イースタービレッジは虚弱児の施設でしたが、今は児童養護施設になっています。その入居児童の多くは、家庭崩壊によるのです。
ドンボスコ学園 サレジオ学園 マルコの家  経堂憩いの家など 
 核家族も崩壊、父子家庭母子家庭、幼稚園も延長保育が当たり前になっています。
 現代のオアシスといえるのは 子供食堂かもしれません。

 世界に目を向ければ、内戦による難民の増加に歯止めがかからず

 家を失い崩壊する家庭が増えています。生活のための人身売買、子供の拉致、兵士、児童結婚など・・・、聖家族の祝日に当たり、これ以上家庭崩壊が進まないように、共に祈りたいと思います。

司祭の言葉 12/24

主の降誕2021

 皆さんクリスマスおめでとうございます。クリスマスは24日の日没から始まります。
 私たちはキリスト誕生の厳粛な夜を迎えました。
 マリアとヨセフの後に、謙遜な救い主の栄光を最初に見たのは、ベツレヘムの羊飼いたちでした。彼らは天使が告げたしるしを認め、幼子イエスを礼拝しました。私たちも幼子イエスの誕生を喜び、その前に跪いて祈りましょう。
 皆さんは何を祈ったのでしょうか。私は平和を祈りました。
 大人の祈り、母親の祈り、父親の祈り、子供の祈り、青年の祈り 移住者の祈り祈る人の数だけ、いろいろな事情があります。

 ローマ教皇がクリスマスに何を祈っているのか。その祈りはどのような祈りなのでしょうか、そこに私たちの祈りのヒントもあります。
 教皇の クリスマスのメッセージは「ウルビ・エト・オルビ(ローマと全世界へ)」と呼ばれ、その名の通り世界情勢に触れるのが慣例となっています。

2014年
 内戦が続くシリアやイスラム国の台頭で不安定化が進むイラクに言及。
故郷を追われて難民化した人々に思いを寄せるよう訴え「今、苦しみのなかにある人々すべてが厳しい冬を乗りこえるのに必要な人道援助を得られるように」
イスラム過激派の襲撃やエボラ出血熱の流行に見舞われたアフリカ諸国についても言及。また、「暴力の犠牲になったり人身売買の対象とされたり、兵士になるよう強要されたりしている多くの子どもたちが救われるように」と祈っています。

2015年
 無関心で、時に容赦の無い文化の中で、わたしたちの生き方はこれに対して、憐れみと、共感、同情、いつくしみに満ち、祈りの泉から毎日汲み取ったものであるようにと、祈っています。

2016年
 世界中で行われている戦争や激しい紛争の結果、苦しんでいる全ての人たちの元へ平和が訪れますように」と祈り、テロの犠牲者たちに慰めの言葉を贈りました。

2017年
 中東の子どもたちの中に、シリアの子どもたちの顔の中に、イラクの子どもたちの中に、わたしたちはイエスを見ます。
 アフリカの子どもたち、平和と安全が、危険に満ちた緊張と新たな紛争によって脅かされている世界のすべての地域の子どもたちの中に、イエスを見ます。
 失業中の両親を持つ子どもたちの中にイエスを見ます。彼らの両親は子どもたちに確かで安心な未来を与えるために苦労しています。子どもたちは、少年期を奪われ、小さいうちから働くことを義務づけられ、あるいは良心の無い傭兵隊から子ども兵士として徴兵されていきます。
 自国を離れ、非人道的な状態で一人で旅をし、人身売買の危険にさらされている多くの子どもたちの中に、イエスを見ます。彼らの目を通して、わたしたちは多くの強制的移住者たちの悲劇を見ます。

教皇は苦しむ子どもたちのなかにイエスを見て祈りました。

 そして、春日部教会の皆さん、幼子の瞳を覗いてみてください。その瞳には何が映っているでしょうか。あなたの顔です。その瞳を覗けば、世界中のどの子の目にも、皆さんの顔が映ります。
 無防備な幼子、助けを必要とする幼子、神はこの世に来るにあたって、このような姿でお出でになったのです。何故でしょうか、私たちに訴えるためです。わたしたちの愛に。

 この待降節の間私たちは、イエスの食卓献金をしました。これらはさいたま教区に送られます。そしてそれは助けを必要とする子供たちに送られるでしょう。
 でもクリスマスに当たり申し上げるとすれば、お金を送ればよいという問題ではありません。皆さんに声をかけて募金をするのは容易です。そしてそのようにすれば沢山のお金を送れるかもしれません。でも違うのです。
 幼子のその瞳には代表者の顔だけではなく、皆さんの顔が映るべきです。
 少なくとも、直接子供たちに接している方々を通じて、幼子の瞳に皆さんの顔が映ってほしい。間接のまた間接ではなく。

 ご存知でしょうか、国境なき医師団、国連難民高等弁務官事務所、シングルマザーズフォーラムなど、など、子供たちを守るために働いておられる方々、そこに直接支援をしてみて下さい。
 領収書とともに、ニュースレターが送られてきて、子供たちの現状を知ることが出来ます。生の声を聴くことが出来ます。

 クリスマスは幼子の前に跪く夜です。イエスはこの世に平和をもたらすためにお生まれになりました。神の愛に感謝しつつ、この夜を賛美しましょう。

司祭の言葉 12/19

待降節第4主日 困っている人々とのふれあい

 今日のお話は、マリアのエリザベト訪問です。天使のお告げの時に、いとこのエリザベトが妊娠6ヶ月になっていると聞いたマリアは、直ちに彼女のもとへ向かいます。エリザベトは高齢でした。出産前の何ヶ月かは手助けが必要であるに違いない・・・そう思ったからでしょうか。あるいはエリザベトと共に神の御業について語り合い、喜びを分かち合うためだったのでしょうか。
 マリアは長い間待たれていた、救い主の母という最も祝福された立場になったばかりでした。でも、自分の身に起こった出来事で頭が一杯になってしまい、自分のことしか考えられないという女性ではありませんでした。エリザベトの喜びを分かち合い、大変な時期にある年上の従姉のために急いで駆けつけるのが自分のつとめであると考えたのだと思います。

 マリアはエリザベトの家に着くとすぐに、シャローム!とヘブライ的に挨拶を交わしたはずです。その挨拶は抱擁しながらする習わしでした。そしてこの時、エリザベトはすべてを知ったのです。
 3年ほど前心臓の検査をしたとき、カテーテルを血管に入れて心臓近くで造影剤が注入されました。注入されたとたん、一瞬のうちに全身にひやりとした感覚が走りました。
 はっとする感覚でした。マリアと抱擁したとき、エリザベトのうちに似たような、でも不快ではなく、甘美な喜びの感覚が走ったのだと想像します。その感覚は一瞬のうちにエリザベトの胎内の子にも伝わりました。そしてヨハネは喜び踊ったのです。丁度、契約の櫃をエルサレムへ運びあげるときのダビデのように  (サムエル下6の5)

 この時エリザベトは、聖霊に満たされ、預言者のごとく声高に、「わたしの主のお母様が、わたしのところにきてくださるとは、どういうわけでしょう」・・・と叫びました。マリアが主から選ばれた者であることを認めて賛美したのです。そしてマリアは、今も世界中で多くの人が唱えている賛歌、マグニフィカトをもって応えたのです。
 この祈りは毎日、教会で晩の祈りの時に唱えられています。

 マリアはエリザベトの身の回りの世話をはじめましたが、マリアの行いを突き動かしていたのは、彼女に満ちていた聖霊でした。

 隣人の下にキリストを運ぶことは、マリアにならう大切な行為です。
 お話したことがあるかどうか忘れてしまいましたが、サレジオ会のボナノッテで聞いた一つのお話があります。

 フィリピンにボーイズタウンという少年の施設があります。

このボーイズタウンという孤児院、名前からも分かるとおり、男の子だけの養護施設です。

12歳から18歳の少年を受け入れています。運営しているのがカトリックのサレジオ会という修道会なのですが、ここがまた体育会系でして、規律を重んじていて、罰則が「祈りながら腕立て伏せ30回」とか、「教会まで走って祈りに行くのを10往復」とか、精神と体が鍛えられるものになっているそうです。職業訓練などにも力を入れており、卒業生は真面目に働くことでよく知られています。
 さて、ある神父さんの話ですが、そこのポスターには、若者が年下とはいえかなりまるまると太った男の子を背負っている姿があって、そこには「その子は重くないかい?」という問いかけと、問いかけに対する若者の答が書いてあったそうです。

 若者の答はどのようなものだったでしょうか。それは「重くないよ、弟だから」というものでした。

 キリストを運ぶことも重荷ではありません。キリストを必要としている人々の下に、キリストを運ぶことは喜びなのです。

 マリアも突き動かされるように出かけました。私たちも、愛のために豊かな感受性が与えられるように祈りたいとおもいます。どこかに困っている方はいないかと、いつも気にかけるものでありたいと思います。

 車を運転している方はご存知ですが、道路に菱形の表示が書かれているところがあります。それは、信号のない横断歩道の手前で、二つ書かれています。 この先には横断歩道がありますから注意してください。横断者がいたら止まってください、という注意喚起のしるしです。運転者には、渡る人がいないか・・・と、目を配ることが求められているのです。

 クリスマス直前のこの時期に、マリアの足取りを追い、現実に困っている人の助けになろうとするのは、時宜にかなったことと云えます。病人、体の不自由な人、老人に声をかけるだけでも良いし、援助の手を差し伸べるのも良いでしょう。身よりのない孤独な人を訪問することでもよいでしょう。それはキリストを運ぶ行為です。でも勇気がいりますね。

わたしたちが勇気を出して、キリストの心を運ぶことで、神の素晴らしさに気づく人もいるかも知れません。  長いこと忘れていた信仰と愛に気づく切っ掛けになるかも知れません。あるいは、人間不信に陥り、神に失望しかかっている人々に、新たな光と希望を与えることになるかも知れません。

 ちまたのクリスマスにはキリストの姿はありません。自分達だけが楽しい時間を過ごそうとする、そんなキリスト不在のクリスマスです。しかしながら、勇気をもって、クリスマスにキリストを呼び戻そうとするのは、真のキリスト者の行為です。
 キリスト無くして、祈りなくして、何がクリスマスでしょう、マリアに倣い、愛の業を行動に移す恵みを祈りましょう。

司祭の言葉 12/12

待降節第三主日

 洗礼と訳される言葉は、ギリシア語で水に沈めるという意味の「バプティゾーbaptizo」という動詞から来る言葉です。古い、罪の奴隷である自分に死んで、新しく神の子として生まれ変わることを意味します。
 「聖霊と火による洗礼」の「霊」は、ヘブライ語のルアッハ、ギリシア語で「プネウマpneuma」で「風、息」を表す言葉です。この「風と火」のイメージは本来、裁きのイメージでした。洗礼者ヨハネが予告した方は、風で中身のない殻を吹き飛ばし、火で焼きつくす、神の裁きをもたらす人でした。ヨハネはその裁きが来る前に、人々に悔い改めを呼びかけたのです。
 その回心の具体的行為として、洗礼者ヨハネは「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者にわけてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と言います。福音は実行されなければ何の意味もありません。
(だが、実際に来られた方イエスは、裁きではなく、許しをもたらされるお方でした)

 皆さんご存知のように待降節には、主の降誕の準備ということで、さいたま教区の取り組みとして、毎年主の食卓献金が行われています。金曜日の夕食に主をお迎えしてもてなす・・・と言う取り組みです。それは陰膳のように食事を供えるという事ではありません。代わりに一食分のお金をとりわけ、主の日に教会に持ってきて献金するというものです。
 でも、実際にお茶わんやお皿を置いてイエス様のご絵などを置くのはいかがでしょうか。そして一回の食事分のお金を底に置く・・・。

 今日のパウロの言葉も黙想してみてください。
「主において常に喜びなさい。(Gaudete in Domino semper)重ねて言います。喜びなさい。あなた方の広い心がすべての人に知られるようにしなさい。主はすぐ近くにおられます。」
 Gaudete in Domino semper・・ガウデーテインドミノセンペル・・この言葉から今日はガウデーテの主日として、バラ色のロウソクが灯されます。待降節の心の準備の中にも、喜びをもって・・ということを忘れないようにするのです。
 ・・・主は、私たちのすぐそばにおられるのです。とくに、小さくされている人々の中に。だから喜びをもって彼らを覚えるのです。

 フランスでは移民一世の30%が社会に受け入れられていないと感じ、移民二世は70%が社会に受け入れられていないと感じているそうです。そしてそこに、ISなどのイスラム過激派が付け入り、3年程前に頻発した、フランスでのテロが引き起こされたと分析されています。  
・・・はたして私たちはどうでしょうか。
 自分の幸せしか目に入っていないとすれば、周りの人にも心配りがなされていないとすれば・・・ 社会の不正を糾弾する声はますます大きくなり、暴発することになります。その責任はイエスの教えを聞き流す私たちにあるのではないでしょうか。

 皆さんは今日の洗礼者ヨハネの言葉、パウロの言葉をどのように聞くでしょうか。
 今の自分はイエスが愛されたように、隣人を愛しているのかどうか。イエス降誕のための最良の心の準備とはなにか、暫く沈黙のうちに考えてみましょう。

 わたしたちは毎年この季節に、特別に「主が来られる」ということに心を向けます。
 それは「今が回心のチャンスだ!」という福音を受け取る時でもあります。さらに、このチャンスとは、来られるイエスに目を向けると同時に、隣人に目を向け、隣人に対して不正を行なわず、愛を行なうチャンスなのだと言ってもよいでしょう。
 主の恵みが皆さんの上にありますように!!

司祭の言葉 12/5

待降節第2主日C年

 戸田のボートレース場から続く広い道があります。オリンピック道路と呼ばれています。1964年の東京オリンピックの時につくられました。
 わたくしが小学生の時には、母校に、昭和天皇を迎えるために、道路が整備されました。国賓などを迎えるときにも道路が整備されることがあります。

 今日の福音に引用されているのは、イザヤ書の40章の言葉です。当時、イスラエルは国を失った状態でした。エルサレムの神殿は破壊され、おもだったひとびとはバビロンに捕囚となって連れ去られていました。異国の地で人々は故郷を思い涙していましたが、イザヤは必ず祖国に戻れる日が来ると勇気づけました。
 イザヤのこの預言はバビロンに代わってペルシャが支配するようになったときに実現しました。エルサレムの神殿の再建が許され、捕囚の地から戻ることができたのです。

 広い大きな道はイスラエル人にとって忌まわしいものでした。アッシリア軍もバビロン軍もギリシャ軍もローマ軍もみな広い道を通って攻めてきました。バビロンには広い道があって、軍隊は凱旋してくるときにその道を通りました。
 特にローマ軍はすべての道はローマへ通じると言われるように、ローマから舗装された道を支配地に向かって整え、途中に駐屯地を置き、戦車を配置し、いったんことあればその道を通って鎮圧に赴きました。そしてそのためにローマ時代にはローマの平和という軍事力を背景にした平和が訪れたのです。

 そしてこの道を通って、使徒たちにより、イエスの福音は世界中にもたらされました。
 ルカはこのイザヤの預言が、今こそ実現したと思ったことでしょう。

 ところで今私たちにとって、広い道を通すということは、どのようなことでしょうか。
 バプテスマのヨハネの招きに従い、悔い改めることです。
 イエスの掟は愛の掟です。この掟が自分のうちで守られているのかどうか。
 無関心をやめ、時のしるしを見分けて、今必要とされていることに関心を寄せて、自分にできる事を、少しでも実行する努力をすることではないでしょうか。

 コロナ下の社会の中で、自分の周りだけではなく、世界の中で置いてけぼりになっている人たちを思い、そのために何かをする、それが道を整える事と言えるのではないでしょうか。

 ルカ福音書の中のヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ。下着を二枚持っているものは、一枚も持たないものに分けてやれ。食べ物を持っているものも同じようにせよ。」そのように勧めます。
 イエスに従う、従うと言いながら、実は無視しているということは無いか、もう一度自分の生き方を見つめなおしてみましょう。

司祭の言葉 11/28

待降節第1主日C年 (ルカ21章25-28,34-36節)

 今日から待降節に入りました。
 待降節はラテン語では「アドヴェントゥス」で「到来」を意味しますが、この到来には二つの意味があります。

 一つにはまず、神の子の第一の来臨、クリスマスを待ち望む期間です。
 ・・・楽しい思いをする、喜びを手に入れる、そのためには待つことが必要です。
 並んで待つのがどうも苦手。だからおいしいものも口にすることが少ない。
 スイーツ、ラーメン、デパートの人気の食堂
 子どもの頃はクリスマスが待ち遠しくて仕方が無かった。その時を迎えるために、リースを作ったり、ツリーを飾ったり、馬小屋を作ったりいろいろ準備をしてその時を待ちました。
 きれいな靴下も用意して・・・
 大人になった今はどのようにその時を準備すればよいのでしょうか。

 待降節のもう一つの意味は、神の子の到来の追憶を通して、終末、世の終わりにおけるキリストの第二の来臨を待ち望み、そのことに心を向ける期間でもあります。
 黙想会はこの第二の来臨を準備します 

 今日のテーマは目覚めていなさい・・ということです。
教会で仕事をしていたらチャイムが鳴る。出てみると本を手にした女性。
世界中で読まれている本の紹介に来ましたといいます。すぐ判りました。「めざめよ」という本を持っています。 ものみの塔の小冊子、エホバの証人です。

その主張は  ●イエスキリストはエホバ神が最初に作られた被造物
       ●父より低いので神ではない・・・というものです。
 でも会員の活動は驚くべきものがあります。 教会までにも来るのですから。

 今日の終末的福音を耳にして、多くの方々はまた、東日本大震災とその後に起こった福島原発の事故を思い起こしたことでしょう。
 そして、行政のあるいは電力会社の言い訳として、想定外という言葉がたびたび使われました。東日本にあのように大きな地震が来ると言うこともみな考えませんでしたし、あのように大きな津波が来ると言うことも考えませんでした。防災地図の津波想定の範囲を超えて大津波が押し寄せました。皆、ここまでは来ないと考えていましたし、防波堤を越える津波も想定していませんでした。原子力発電所の電源が全て失われると言うことも想定外でした。
 また今回のパンデミックにあたって、すでに2年が経過しているのに、日本製のワクチンはまだ出来上がっていません。基礎研究に十分な予算がつけられていなかったせいだとも聞きます。また、増え続ける医療費削減のため、保健所の数も平成元年の848から昨年は469と半減させたため、感染者特定作業の処理能力の限界を超え、政策の見直しを迫られています。

 いずれも想定外でしょう。 でも、今日の福音は想定外という言い訳をしてはいけないと、いつも備えているように戒めます。

 「太陽と月と星に徴(しるし)が現れる」というような天体の異変は、イザヤ13章10節、エゼキエル32章7節、ヨエル2章10節などにも見られます。
 これは、人間の罪に対する神の裁きの到来を表す表現です。

 現代のわたしたちが思い描く世界の終わりは、世界全面核戦争であったり、地球環境の悪化による人類の滅亡であったりして、破滅そのものであり、そこには何の救いも感じられないかもしれません。

 しかし、聖書の終わりについてのメッセージは同時に救いの完成のメッセージでもあります。なぜなら、その時が神との出会いの時でもあるからです。

 28節に「解放の時が近いからだ」とあります。解放とは、ギリシア語では、「アポリュトローシス」 「身代金を払って奴隷を解放する」という意味です。わたしたちは何の奴隷となっているのでしょうか。何に縛られているのでしょうか。 
 この世界の混乱に対する不安。この世界の悪の現実、戦争や犯罪や暴力という現実、
 さらには、「放縦(ほうじゅう)や深酒(ふかざけ)や生活の煩(わずら)い」(34節)それらが私たちを縛り、心を鈍くし、周りの事柄に無関心にしているとも言えます。

「いつも目を覚して祈りなさい」の「目を覚ましている」ということはどういうことでしょうか。マルコ、マタイ、ルカの各福音書ではそれぞれにニュアンスが違うようです。

 マルコ13章では、偽預言者に警戒するように、目に見えるものではなく、決して滅びることのないイエスの言葉に信頼を置くように、という勧告ですし、

 マタイ24-25章では、最終的に「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25章40節)というイエスの宣言につながっていきますので、「目を覚ましている」ということは、現実の生活の中で目の前の苦しんでいる人を大切にして生きることといえます。

そして今日のルカ福音書では、目を覚ましていることを祈ることと結びつけますので「目を覚ましていること=祈ること」と言っても良さそうです。
 「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くなる」というのはおそらく誰の中にもあることでしょう。 しかし、その時なって想定外という言葉を口にすることのないように、心しておくべき大切なことがらに心を向けさせるのが「祈り」なのです。

司祭の言葉 11/21

王であるキリスト Jo18章33節~37 B年

 今日の朗読個所は、大祭司たちがイエスを尋問した後、ローマ総督ピラトにイエス様を処刑させるため総督官邸に送り、これを受けてピラトがイエス様を取り調べるくだりです。

 ピラトは、いつもは地中海に面した港町カイザリアに住んでいますが、過ぎ越祭のように大勢の群衆がエルサレムに押し寄せる時期には、不測の事態に対処するために、エルサレムのヘロデの宮殿か、あるいはアントニア要塞に官邸を置いていました。
 彼はローマ人ですからユダヤ人の政治的な動向には細心の注意を払っていましたが、信仰上のもめ事には全く関心を持っていませんでした。そこで大祭司たちは政治上の問題として訴え出たのです。自分を「王だ」と言っている謀反人だと。

 王と言っているとすれば大問題です。王の任命権はローマにありましたから。
 ピラトは、「お前がユダヤ人の王なのか」と切り出します。「お前が」と、強調されています。目の前の人物は予想とは違った、みすぼらしい無力な人物であり、とても「王」とは云えない姿に驚き、軽蔑の心をにじませながら「お前のような者が王だというのか」と口に出したのです。

 ピラトはこれまで、多くのユダヤ人の問題を尊大な軽蔑の念を抱いて処理してきました。

 しかし、イエス様をそのようには処理しませんでした。物語を読んでゆくと、ピラトは自分の理解できない状況の中で、とまどい、あがいているのがわかります。

イエス様はあからさまに、「私の国はこの世には属していない」と言うことによって、自分は王である、しかしそれは、地上のものではないと定義を下します。
 エルサレムの空気は、常に爆発の危険をはらんでいました。過ぎ越祭りの時期は民族意識が高まって、ものすごい、一触即発のダイナマイト状態となりました。ローマ政府はそのことを良く知っていました。そこでいつもこの時期は、臨時の軍隊をエルサレムに送り込んでいました。
 もしイエスが暴動を起こそうと思ったら、志願兵を募ったなら簡単に成功したと思われます。ピラトは、どんな時も3000人以上の軍隊を持ちませんでした。その一部は本部のカイザリアに、一部はサマリアに置かれましたから、エルサレムで実際の任務に当たっていたのは数百人でした。

 イエス様はここで、自分が王であることを明らかにしながら、同時に、自分の王国が軍事力でなく、人間の心の中の王国であることを明らかにしています。

 ここでイエス様は自分が何故世に来たかを述べます。神についての真理、人間そのものについての真理、人生についての真理を教えるために来たと。

 これこそ、まさに、わたしたちがキリストを受け入れるか拒絶するかのどちらかを決めなければならない大きな理由です。

 真理について中途半端な道は許されませんから
 人はそれを受け入れるか、拒絶するかのいずれかになります。
 そして、キリストがその真理なのです。

 私は王と言う言葉が好きではありません。この世の王は、力によって弱いものを従属させる、そのような王ですから。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず・・」という有名な言葉があります。福沢諭吉の「学問ノススメ」冒頭の言葉です。王と臣民・・・ここに貧富の差や人種差別、貴賤と言った差別の原点があるとみるからです。

 聖書における王の起源は、神こそは王であるというものです。このお方はすべての人を神の国へと招き入れます。人々がこの世の王を求めた時、神こそが王でありこの世の王は必要ないとさとしましたが、人々は人間の王が欲しいと聞き入れませんでした。(サムエル記上8章)

 わたしたちはキリストを王としていただいています。
 今日はそのことを忘れないための日です。
 わたしたちは、・・・武力によってではなく、人々の心を愛によって征服する務めをもつキリストの、愛の兵士です。

 「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」
(1コリント9ノ16)
 と言ったパウロにならい、わたしたちもまた、一人一人の心の中にこの福音を述べ伝えたい、との思いを新たにしたいと思います。