司祭の言葉 9/11

年間第24主日 ( ルカ15章1-32節)

 皆様お元気でしょうか、ホミリアをお送りいたします。
 今日のみ言葉には徴税人や罪人という言葉と、ファリサイ派の人々や律法学者たち・・という言葉が出てきます。
 徴税人や罪人はユダヤ社会の被差別民(アンタッチャブル)です。ユダヤ社会を理念と実践において支えているのは自分たちだと自負するパリサイ人や律法学者たちによって、その社会から排除されていた階層の人たちです。

 徴税人は下請けの徴税請負人で、徴税現場で「決まっているもの以上に取り立て」て、民衆から忌み嫌われていました。(ルカ3の13)市民としての当然の役職からも除外されて、法廷で証人として立つ資格も奪われていました。

 いっさいの市民権がはく奪されていたという点では、「罪人たち」も同じです。犯罪者だけではなく、品行的にいかがわしいと思われていた、高利貸し、ばくち打ち、遊女、羊飼いなども罪人とされました。

 ユダヤ人は本来遊牧民で、ダビデ王も羊飼いでしたし、旧約時代の羊飼いのイメージはよいものだったと思います。しかしイエス様の時代は違います。羊飼いは他人の土地に羊を追い込んで、他人の草を無断で食べさせたりする不届きものという考えが一般化していました。さらには、安息日にも仕事をする不敬な輩と考えられていたのです。

 他方、パリサイ人という呼び名は「分離した」を意味するヘブライ語から来ていて、自分たちは「世の汚れから分離されたもの」なのだと自負していました。そのようなかれらは、律法を守らない徴税人や罪人たちを「地の民」と軽蔑して呼び、そこには越えがたい壁がありました。
 パリサイ派の規約には、血の民には金を預けてはならず、何の証言をとってもならない。秘密を明かしてはならない。孤児の保護を頼んではならない。旅の道ずれになってはならないとあり、接触することを避けていたのです。そういう人の客となること、あるいは客とすることを禁じていたといいます。

 ですからイエス様が彼らと交わり、その客となるのを見て衝撃を受けたのです。彼らは、自分たちにとって当然と思える価値を、真っ向から否定する現実を目にしたのです。

 とくに、ユダヤ人にとって「共に食事をすること」は「神の前での大宴会」のイメージでした。出エジプト記はイスラエルの長老たちがシナイ山で「神を見て、食べ、また飲んだ」ことを、特別な恵みのしるしとして伝えています(出エジプト記24章11節)。
 地上で「共に食事をすること」は、この「神のもとでの宴とそこに集う共同体」を目に見える形で表すものと考えていましたので、自分たちだけが神の救いの食卓にあずかれると考えていたユダヤ人には、異邦人や罪人たちと食事を一緒にするなどということは、ありえないことだったのです。

 徴税人や罪人たちが白昼、同時に姿を現し、大勢でイエス様のもとに来るのを見ることも、信じられない出来事だったのです。
 そして、彼らがイエス様の話を聞こうとして集まってきた・・ということも、ありえないことが起こったと、驚きをもって受け止められたのでした。

 彼らには理解できないイエス様の行動に思わず「この人は罪びとたちを迎えて、食事まで一緒にしている」と、驚きと非難のまじりあった言葉が出てきました。

 それに答えてイエス様は、今日の譬えを語ったのです。
 そこに示されているのは、失われた羊とドラクマ銀貨の話を通じて、それらが見つかった時の喜びを例にとって、罪びとの悔い改めは、神の大いに喜びとすることなのだということでした。

 それはユダヤ人たちにとって、驚天動地の言葉でした。なぜなら、心の狭いパリサイ人たちは「罪びとが一人でも神のみ前で抹殺されるなら、天に喜びがある」とさえ語っていたからです。(バークレーのルカ福音書p222)

 ここで天と語られているのは神様のことです。感情を神に帰すべきではないとされていましたから、このような遠回しの言い方で、神をあらわしています。
 聖書学者のエレミアスは、ここは次のように訳すべきだと言い、パリサイ人たちに対するイエス様の弁明は、次のようなことだと語っています。

「このように、神は、どのような大きな罪を犯すことのなかった99人の立派な人々以上に、悔い改めた一人の罪びとのことを喜ばれるであろう」

「神の慈しみは限りなく、神の至上の喜びは赦すことにある。それゆえ、救い主としての私の使命は、サタンが奪ったものを取り上げ、迷い出たものを家に連れ帰ることである」・・と。

司祭の言葉 9/4

年間第23主日C年

 訳文をそのまま読んだのでは全く混乱してしまう箇所ですが、今日の個所はイエス様の後に従おうとするものに覚悟を問う場面です。

 「大勢の群衆が一緒についてきたが、イエスは振り向いて言われた。」・・・とあります。
イエス様について行った群衆・・・病人を癒し、奇跡を行い、パリサイ人たちを論破しエルサレムに向かうイエス様・・イエス様をメシアではないかと考えた群衆は、熱狂し、これからエルサレムに入り、ユダヤの独立のために立ち上がることを期待していました。その彼らにイエス様は冷や水をあびせます。弟子となることの難しさを気付かせることで、自分につき従うのを思いとどまらせようとした・・と聖書学者のエレミアスは言います。

 「もし誰かが私のもとに来るとしても、父、母、妻、こども、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない」
 驚きの言葉ですね。イエス様の教えと矛盾するかのように聞こえますね。
   第四 汝父母を敬うべし
   あなた自身のようにあなたの隣人を愛しなさい

 実は、近東の人たちは比較級を表すのに、しばしば対立する概念(愛と憎しみ)を用いることがあるので文字通り解釈するのではなく、
憎む=より少なく愛する・・という意味と理解されています。マタイ福音書には次のようにありますから、比べてみればわかりやすいでしょう。
   わたしよりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。
   わたしよりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。 マタイ10の37 

 そして、塔を建てようとするものと、戦いを始めようとする王のたとえ話によって、イエス様はよくよく熟慮せよ・・と説いたのです。

 わたしたちはどちらを選べばよいのかと判断に迫られることがよくあります。
選択の余地があまりない場合には、悩みぬくことも多いと思います。 

 11年前、福島原発の事故で放射能汚染が広がり、人々は避難を余儀なくされました。被災地の南相馬と浪江に行った折、「この先は汚染地につき立ち入り禁止」という看板があり、通行止めになっているところがありました。そこは牧場でした。 いまだに片付いていない車  のこされた300頭のべこたち エサを与えなければ死んでしまいます。 国は殺処分を申し渡してきました。
 飼い主はぎりぎりの決断をせまられます。 果たして被ばくした牛を飼うことに意味があるのか。 経済的には何の価値もありません。ミルクも肉も人の口に入ることはありません。 でも、役に立たなくなったからと言って、殺してしまっていいのか。飼い主にしても、収入はゼロ 300頭もいれば冬場のエサ代もばかになりません。
  「牧場の牛は原発事故の生きた証 これからも生かし続ける」

 熟慮の末、牧場主はこれからも苦しみ続けることを選択しました。協力者たちは一般社団法人を設立し、寄付を募ってきましたが、10年たって、この春法人は解散したとのことです。そして飼い主は、個人的に、有志と共に、あと10年は飼育を続けると言っています。 希望の牧場といいます。

 そこにイエス様がいたらどうするのだろうかと思います。
 殺すだろうか、生かすだろうか・・。

 塔を建てようとするものと、戦いを始めようとする王のたとえ話によって、よくよく熟慮せよ・・と説いたイエス様は、もし自分に従って来ようというのであれば、自分の持ち物一切を捨てる覚悟が必要だとおっしゃって、人々の熱狂を戒めた・・それが今日のみ言葉です。さて、私は覚悟が出来ているでしょうか。

司祭の言葉 8/28

年間第22主日(ルカ14の7-14)

 今日のたとえで、イエス様は私達に対するいましめを伝えます。神は私達の父であり、私達はみんなそこへ招かれています。でもその招きに応えるためには、私達はいつも謙虚でなければならないという事です。

 名もない人が婚宴に早めに到着、上座についたとします。ところがもっと身分の高い人が到着すると上座を占めていたその人はその席を降りるようにいわれ、非常に気の毒な状態が生じます。他方、ある人がすすんで末座についた場合には、あとでもっと上座をすすめられ、その謙遜のおかげでますます尊敬されるようになります。

 わざとらしいへりくだった姿勢はかえっていやらしいですが、謙遜は、そのようにふるまっている人が至極当然の事として行っている時には、ほんとうに美しいものです。そして、この謙遜は偉大な人々にはつねに美徳の一つでした。

 この埼玉県児玉郡保木野村付近で生まれた江戸中期の有名な国学者がいます。塙保己一です。不幸にも7才で盲目となり、12才で母と死別した悲劇の人でした。
15歳で江戸に出て、3年間盲人としての修業を積み、按摩、鍼、音曲などの修業をしましたが不器用で、いずれも上達しませんでした。しかし、弟子入りした雨富検校のもとで学才が認められ、国文学を学んだところ抜群の努力と異常な記憶力で国学丈でなく中国文学にも通じるようになります。勿論、人によんでもらって聞くのですが、25.6のころは古今の有名な本の大部分を暗記。33歳の時、それまでの暗記した書物を全部出版しようとの大願をおこします。=群書類従 正編530巻、続編1000巻

 その保己一について、次のような逸話が残っています。彼の伝記を書いた花井泰子氏の文章の抜粋です。

 麹町の平河天神は西念寺横町から半里あまり。ある朝激しい雨の中を保木野一は、お参りを済ませて帰ろうとしたときに下駄の鼻緒を切らしてしまった。境内に前川という版木屋のあることを思い出した保木野一は切れた下駄をぶら下げて店先に立った。「鼻緒が切れたので、すげてくださいませんか」保木野一が奥に向かって声をかけたとたんに鋭い声がとんできた。「なに?下駄の緒をすげろだと?生意気言うんじゃねよ、按摩のくせによ。ほれ、さしをくれてやるから、さっさと行っとくれ!」「さし?」「なんだ、さしでは気に入らねえというのかよ。さし一本でもありがてえと思え!」
小僧の投げつけたさしが、保木野一の顔に当たって落ちた。さしというのは、銅銭の穴に通す縄である。下駄の緒にしたら弱くてすぐに切れてしまうのだ。保木野一はそれを拾い、丁寧にお辞儀をして歩き出した。小僧たちの嘲り笑う声が背中に浴びせられた。怒ってはならない。腹を立ててはならない。保木野一は激しい雨の中を心経を唱えながら歩き続けた。小僧の浴びせた「按摩のくせに」という言葉は保木野一の心に深く残り、修行への道を一層はげませるものとなった。

 それから10年ほどののち、「群書類従」が完成、出版するにあたり保己一は幕府に、この「前川」を版元に推薦しました。何もしらぬ主人が保己一に推挙の礼をいうと、保己一は「私の今日あるのはあの時うけた軽蔑に発奮したのが動機であるから私の方がお礼を申しのべたい」と見えぬ目に深い喜びを浮かべて語ったといいます。

 怨みに報ゆるに怨みをもってしたら、永久に怨みはなくなりません。しかし保己一のそのすばらしい謙虚な心は怨みをさえ感謝にかえたのです。

 皆さんがよくご存じのヨゼフ物語の中にも、その謙虚さが語られています。
ひとり父に溺愛されたヨゼフは兄弟の妬みを買い、エジプトに奴隷として売られましたが、そこで王の夢を解き、宰相となりました。王の夢で示された7年間の大豊作に続く7年間の大飢饉を乗り切り、家族をエジプトに呼び寄せました。そしてヤコブが死んだのち、自分たちが報復を受け奴隷とされるのではないかと恐れる兄弟たちに、「あなた方は私に悪をたくらみましたが、神はそれを善に替え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」といい、兄たちを、安心するようにと慰めました。

 私達はそれでは、どうしたら謙虚な心を失わないでいる事ができるのでしょうか。
 事実を認める事によってです。保己一はその大願成就の一因に、軽蔑されたことによる己の発奮があったことをすなおにみとめました。そして、そのために軽蔑した人に逆に感謝の心をもったのです。
 ヨゼフもまた、自分のうちに働いた神の摂理を認め、兄たちを慰めました。

 今日のいましめをききながら私達にも、謙虚な心が与えられるように祈りましょう。

司祭の言葉 2022 1月〜5月

2022/5/29 主の昇天
2022/5/22 復活節第6主日C年
2022/5/15 復活節第5主日C年
2022/5/8 復活節第4主日(ヨハネ10章27-30節)
2022/5/1 復活節第3主日 (ヨハネ21・1-19)
2022/4/24 復活節第2主日
2022/4/17 主の復活
2022/4/10 受難の主日 (ルカ23章1-49節)
2022/4/3 四旬節第5主日
2022/3/27 四旬節第4主日
2022/3/20 四旬節第3主日 (ルカ13章1‐9節)
2022/3/13 四旬節第2主日C年(ルカ9:28~36)
2022/3/6 四旬節第1主日 (ルカ4章1-13節)
2022/2/27 年間第8主日C年
2022/2/20 年間第7主日C年
2022/2/13 年間第6主日
2022/2/6 年間第5主日C年
2022/1/30 年間第4主日C年
2022/1/23 年間第3主日C年(ルカ1章1-4節、4章14-21節)
2022/1/9 主の洗礼
2022/1/2 主の公現

司祭の言葉 8/21

年間21主日C年

 新型コロナウイルス感染予防の規制緩和で、三年ぶりに移動の規制がなくなり、今年のお盆帰省は混雑したようです。特に高速道路は、蜜を避けて車にする人が多く、関越自動車道や東北自動車道もかなり込み合いました。 料金所も、ETCを使いますと、チケットを出さなくても車はそのまま通れるようになっていますが、通過するのは一台ずつであることには変わりがありません。

 イエスは神の国に入るのに「狭い戸口から入るように」とおっしゃいます。

 神の国の入り口は狭い。しかも、私たちが太ってしまうためにその戸口はさらに狭くなります。 
 ある時、現在熊谷教会にいらっしゃる藤田薫神父様と夕食の時、片足でかがみ、またそのまま立てるか、何回出来るかという話になったことがあります。藤田神父様はいつでも5回は出来る。足には自信があるという。わたしもやってみようと言ってしゃがんでみた。ところがしゃがめないのです。お腹の厚みがじゃまになって・・・

 太るのは体だけではない・見栄、傲慢、財産、えとせとら。
 司祭志願者は、神学校に入るときカバン一つですが、司祭になった時には段ボール箱20個ほどに。そして教会を移動するときには、トラックが必要になります。
 もちろん置いて行かれても困りますが。人によって必要が違いますから。

 狭い戸口から入るように努めなさい。

 この狭い戸口とは、何を意味するのでしょうか。お屋敷の正門わきのくぐり戸、お城の大手門わきのくぐり戸、あるいは茶室のにじり口を連想します。一人ずつ、個別に招き入れられる入り口です。

 アブラハムの子孫であるユダヤ人は、自分たちは当然のこととして、神の国に入れると思っていました。でも神の国は団体客としての招きではないのです。

同じことはキリスト者にも言えます。キリスト者だからと言って救いが確実なのではありません。団体客専用の入り口はないのです。

 「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」という言葉は、非常に多くの人がそこに受け入れられる感じであると思います。
 でも「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」という言葉は、「先だと思っている人が神の国では後になり、後だと思っていた人が、神の選びでは先になる」ということです。アブラハムの子孫である自分たちに優先権があると思っていた人たちは、驚いたことだろうと思います。

 マタイ福音書には「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」7の21との言葉があります。
 そして25章には次のような言葉があるのです。
 「それから王は左側にいる人たちにも言う『呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその手下たちのために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いていたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに訪ねてくれなかったからだ。』」25の41-43
 「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」25の45

 記されている神の裁き・判断の基準は明白であると思います。

 ウイリアムバークレーが紹介しているお話があります。
 昔あるところに、贅沢の限りを尽くし、あらゆる尊敬を受けていた一人の女がいた。その女が死んで天国につくと、彼女をその割り当ての家に案内するために、一人の天使が送られた。二人は素晴らしい邸宅をいくつも通り越していった。その女は、それを通り過ごすたびに、これが私に与えられた邸宅に違いない、と考えた。天国の大通りを過ぎて郊外に近い場末に来ると、そこはずっとずっと小さな家が点点としていた。とうとう一番端まで来ると、そこに、山小屋よりもまだ小さい一軒の家があった。「あれがあなたの家です」とガイドの天使が言った。「なんですって、あれがですか」と女は思わず叫んだ。「あんな家には住めませんよ」。「お気の毒ですが」と天使が言った。「でも、あなたが送ってきたもので建てられるのは、これでせいいっぱいなんです」。

 狭き門から入るとは、地上にではなく天に宝を積むこと、主のみ心を行うこと・・・ではないでしょうか。

司祭の言葉 8/14

年間第20主日C年

 「私が来たのは地上に火を投ずるためである」この言葉に皆さんは何を連想しますか?
 先週のみ言葉は「あなた方も用意していなさい」でした。直接的にはエルサレム滅亡の予言に絡むものでした。今日の福音はそのあとに続くものです。神殿は焼かれ崩壊しましたので、戦火との見方も考えられます。

 77年前、人類史上初めて人類の上に原子爆弾が投下されました。一瞬にして中心部は4000度の高熱となり、爆心地から1.2キロ以内で熱線の直射を受けた人は皮膚が焼き尽くされ、3.5キロ離れた人も素肌の露出部分はやけどを負いました。
 1961年10月30日北極海の孤島で行われたロシアのツアーリボンバの映像の機密が解除されました。その公開された爆発の映像は広島長崎の1500倍というものでした。
 2021年1月時点、保有される核弾頭は13,080発 90%を米露が保有 ストックホルム平和研究所は使用されるリスクは過去最大と発表しています。
 今核戦争が起これば地球全体が火の海となり、そのあとに来るのは小氷河期だと言われています。その時果たして地球上の生命は、生き残ることが出来るのでしょうか。
 明日まで平和旬間です。今日のミサの中で平和のために祈りましょう。

 しかしながら、イエス様の「その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか」というこの言葉から見ると、この火は、別な火に思えます。

 旧約聖書では 火は神がそこにおられることを示すしるしでした。 モーセの召し出しでは、神は燃える芝の中から語られていますし、シナイ山では、神は燃える火の中からモーセに十戒を授けています。

 ルカ3章16節には、洗礼者ヨハネのこういう言葉がありました。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。

 「火」は、人に罪のゆるしをもたらし、神との結びつきを確かにする聖霊の火、信仰の火でもあります。

 今日のみ言葉の前にイエス様は空の鳥、野の花の話をしておられます。そして「恐れるな、ただ神の国を求めなさい」と言っておられます。
 だとしたら、イエス様が燃えていたらと願った「火」は、神の国に対する熱い思いであると考えることが出来ます。
 そのためには決断も迫られます。何にもまして神を求める・・という決断です。

 紀元64年に「ローマの大火」が起こりました。小説クオヴァディスでは、ネロ皇帝が放火したとのうわさが広がり、これを打ち消すためにキリスト者の放火という噂を立て、迫害が始まったとされています。ルカがこの福音を書いているとき、すでにキリスト者への迫害は始まっていましたので、ルカ自身は終末の時が近づいていると感じていたことでしょう。ルカの教会の人々は、イエス様によって始まっている神の国を受け入れるか、それを拒否するか、という決断を迫られていました。
 そこでは表面的な平穏さを保つだけではすまないのです。そしてそれは現実となりました。ローマ人がキリスト教を憎んだ理由は、そこにあったといいます。キリスト教は家庭を二つに引き裂いたからです。キリストとこれまでの友人知己とどちらを多く愛するか。イエス様の到来は、わたしたちの中にも分裂や対立の厳しい現実を引き起こすかもしれません。
 用心していましょう。そして備えましょう。

司祭の言葉 8/7

年間第19主日 (ルカ12章32-48節)

 今日のイエス様のメッセージは「あなたがたも用意していなさい」という言葉です。イエス様は、当時話題になっていた事件を取り上げ、「あなた方は、最近強盗に這入られたあの家の主人のように、驚かされないように注意しなさい」と、ご自身が予知なさった大惨事の警告をなさったのだ・・・と神学者は言います。

 イエス様の時代、ユダヤ人はローマの圧政に苦しみながらも、のほほんとした毎日を送っていました。そのユダヤ人を前にしてイエス様は福音を述べ伝えながら、強い言葉で、迫り来る苦難の日に備えるように、たとえをもって語りかけたのです。 今日の福音はその語りかけの場面です。

 西暦66年、ユダヤ人はローマ帝国に反乱を起こしました。(ユダヤ戦争)そして、4年後の70年、ローマ軍はエルサレムの大部分と神殿を占領し、破壊しました。この時、多くのユダヤ人が殺され、また奴隷となりましたが、予知なさった大惨事とは、この「エルサレムの滅亡と神殿の崩壊」と言う出来事です。

 ルカによる福音書では21章で語られるのですが、マタイによる福音書ではでは泥棒の例えの前に、エルサレム滅亡の予言が語られています。

 イエス様はその危機的状況に、人々の目を開かせようとします。盗賊のように、予期せぬ洪水のように、天変地異のように、過酷な恐ろしいことが起きようとしている。準備しなさい、もうすぐ手遅れになる・・・と。

 ルカは伝えられてきたイエスの語録集(Q資料)を紐解きながら、そこに自分の体験を重ね合わせて福音を編集しています。 ルカがペンをとったとき、エルサレムの滅亡は現実となっていましたが、まだキリストの再臨の時は来ていませんでした。でも近いだろうと思われていました。そこで、イエス様のお話を現実の共同体に当てはめて説明しました。
 ペトロの「この話はみんなのためですか、それとも私たちのためですか」と言う質問に、イエス様が、「忠実で賢い管理人のたとえ」を語ったところが、「あなた方に対して語ったのだ」というイエス様の答えになっています。

 イエス様が21章で語る「終末の徴」「時のしるし」を私達はどこに見ればよいのでしょうか。
 新型コロナウイルスのパンデミック、ロシアによるウクライナ侵攻、WHOが警告を発しているサル痘、地球温暖化、異常気象、成層圏のオゾン層の破壊、極地の氷の減少、過剰な開墾や伐採、放牧による砂漠化など、「時のしるし」は沢山あります。

 私たちはあまりにもぬるま湯のような今の現状になれてしまっています。

 イエス様の今日の言葉は予言です。エルサレムの神殿は崩壊しました。ルカはそのことを知っていました。でも、世の終わりではありませんでした。
 しかし21世紀の今こそ、しっかりと受け止めなければなりません。
 このホミリアを書きながら、慄いています。このままでは間もなく地球の終わりが来るのではないかと。今日、明日、それが来てもおかしくない所に私たちは立っています。
 世界の人口の8人に1人が飢えているのに、食用に生産された食料の3分の1が捨てられています。日本のテレビでは食レポ番組や食べ放題、大食いの番組があふれています。そして賞味期限の過ぎた食べ物の大量廃棄。フードロス。
 そしてこのフードロスが与える影響の一つとして、地球環境への負荷が挙げられています。世界の温室効果ガスの8~10%がフードロスによって排出されているといわれています。どこか狂っているとしか言い様がありません。

 終末時計・・という言葉を聞いたことがあると思いますが、どんな時計ですか?

 アメリカ合衆国の雑誌「原子力科学者会報」の表紙絵として使われている時計で、時計の45分から正時までの部分を切り出した絵で表されています。
 核戦争などによる人類の絶滅を『午前0時』になぞらえ、その終末までの時間を「0時まであと何分」という形で象徴的に示す時計です。

 75年前の1947年に発表され残り7分から始まりましたが、冷戦終結後は17分前まで戻されました。しかしここ3年は100秒前のままです。2022年現在は1月21日に発表され、依然として「100秒前」となっています。終末の時は迫っているという認識です。

 昨日から日本の教会は、平和のために力を尽くす10日間に入りました。教区としての特別な取り組みは聞いていませんが、私たちは今日の福音を通して、主ご自身から直接、すみやかに、平和について考え、それを行動に移すことを求められていると思います。

 

司祭の言葉 7/31

年間第18主日C年

 「ラビ」と呼ばれるユダヤ人たちの宗教指導者は、宗教的な教えだけでなく、実際の人々の生活の中での相談にものり、もめごとの裁定にも関わりました。イエス様に訴えた人は、そのようなラビの1人としてイエス様を見ていました。

 最近、銀行からは私に、遺産相続をお手伝いますよ・・という手紙が来ます。
 さいたま教区からは、遺言を書いておいて・・という手紙が来ています。書く気が起きないのでまだ出していませんが・・・。
 今セウイのグループホームの大きな問題は高齢者の処遇です。設立から30年を過ぎ、入所者も高齢となりました。その終の棲家をどうするか。 私たちも同じ問題でいつも悩んでいます。
 年金で生活できると思っていたのが、最近は、老後資金として2000万ほどのお金が必要だと言われています。

 自分の力でなんとかしよう、人間の力ですべてをうまくやっていこう、とわたしたち現代人は考えています。そのためには、やはりお金が必要だ、ということにもなります。金持ちのほうが高度な医療を受けられますし、発展途上国の人には充分な医療が行き届かない、というような現実があります。

 多くを持っているものに対して、イエス様は今日のたとえを語りました。この男について次の言葉が際立っています。
 「さあ、これから先何年も生きていくための蓄えが出来たぞ」

 わたしたちの多くは、この言葉を言うために頑張っているのではないでしょうか。

 イエス様はこの金持ちに、愚か者という言葉をお使いになります。

 ここで、チコちゃん流に質問してみましょう。
 イエス様のおっしゃる「愚か者」って、どういう人でしょうか?

 考えてみたことがありますか? ボーっと生きてんじゃねえよ。
 そういわれてしまいますよ。 何かいい答えが見つかりましたか?

 答えは、「神はいないという者」のことです。

 聖書は愚か者について、次のように言っています。
 「愚か者は心で、『神はいない』と言う」・・・と。(詩編14の1)

 わたしたちが、もし人間の力やお金の力ですべてがなんとかなると思っているならば、「お金が神」になります。 そして、聖書の解釈では、愚か者とは、「神の存在を実際の行いの中で否定する者」のことなのです。

 イエス様のたとえは今の私たちに対して語られています。
 人間にとってもっとも顕著に「無力さ・限界」を感じるのは、死に直面したときです。「今夜、お前の命は取り上げられる」・・・いつ自分の死が訪れるか、本当はだれも知らないのです。その時、富は頼りにならない、
 本当に問われるのは「神の前に豊かになる」ということなのだ、とイエス様は語ります。

 ジョンウエスレーという18世紀のイギリス国教会の司祭の話を思い出します。
 彼は30ポンドの給料の時28ポンドで生活し、2ポンドを寄付しました。60ポンド90ポンド120ポンドと給料が上がっても、28ポンドで生活し、残りを寄付したそうです。 王室の会計係が彼に財産の申告書を要求してきました。彼は「ロンドンとブリストルにそれぞれ銀の匙が二個ずつ、それが私の持っている金銀の食器のすべてです。また将来も周囲の人々がパンを必要としている以上、これ以上買うつもりもありません。」そう答えたそうです。
 ローマ人のことわざに、「金は海水のようだ」というのがあるそうです。
 どういう意味でしょう。それを飲めば飲むほど渇く・・ということです。

 今日のイエス様の言葉を私たちはどのように受け止めるのでしょうか?

 そして今日の朗読にはありませんがこの後に続くみ言葉は、野の花の話です。

「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにもきかざってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ」

 少しの資産しか持たないものに対してもイエス様には言っておきたいことがありました。それは、無為無策で無鉄砲な生き方を勧めているのではなく、過度の思い患いを戒めている・・ということです。

 野の花とは、パレスチナで多く見られるアネモネの花のことです。
 パレスチナは木の少ないところなので、乾いた野の草が炉の火に用いられたのです。

司祭の言葉 7/24

年間17主日C年

 みどり幼稚園では朝8時、職員が仕事を始める前に皆で主の祈りを唱えています。先生たちは全員未信者なのですが、それでもこの祈りを唱えています。でもイエス様に倣う者の生き方を示す祈りと考えれば、信者でないものにとってもよい祈りだと思います。

 イエス様の時代、ユダヤ教の各グループには、それぞれのグループの特徴を表す典型的な祈りがあったそうです。ルカはこの「主の祈り」をイエスに従う者の生き方を表す祈りとして考えています。その言葉について少し見てみましょう。

 父よ・・アラム語 「アバ」のギリシャ語訳ですが、アバはユダヤ語祈祷書に例がありません。もともとアバは片言の音なのです。タルムードには、「こどもが小麦の味を知るようになったらアバとイマと言う言葉を習う・・とあるそうです。(おとうちゃん・おかあちゃん)イエス様があえて不敬ともみられる家族用語・親密な表現を用いた事の背景には、ユダヤ教の権威主義に対するイエス様の批判があったと聖書学者は見ます。
 こう祈りなさい・・との言葉によって、主の祈りを祈るものは、イエス様と共に神をアバと呼ぶ関係に入れられたのです。

 あなたの名が聖とされますように 
 祈りの背景にあるのは神の名が今は汚されている現実があると言う事です。
→ クローン技術は、場合によって神の領域を汚します。
→ 卵子の段階で障害を見分け優勢卵のみを生かす技術は 障害を罪悪と考える風潮を生む危険が指摘されています。

 必要な糧を毎日、その意味は、その日生きるために必要な食べ物であって、決して余分な食べ物ではありません。今この世界は食料の危機を招いています。 世界の4分の一の人口が、世界の食料の4分の3を独占していると言われています。彼等にパンを与えるためにはどうしたらよいのでしょうか? 私に何が出来るのでしょうか
 主の祈りを祈る者は、この現実に胸を痛めなければなりません。
 春日部ひつじ食堂のメンバーが、子供食堂に来ているご家庭にお米を届けたとき、出迎えた子供が、久しぶりにお米が食べられると喜んでいたそうです。私たちの身近なところにも、助けを必要とする方々がおられるのです。

 私たちの罪を・・・ユダヤ人が罪の許しを乞うときは「私」とは言わずに、必ず「私たち」と言います。その理由は、ユダヤ人は一つの大きな家族と考えているので、自分が犯した罪でも全員が犯したことになると考えますし、たとえ自分が盗まなかったとしても、誰かが盗むという行為に対しては、自分の慈善が足りなかったから、盗む人が出た・・と考えるのだそうです。(ユダヤ5000年の知恵p169)

 続いて、イエス様のたとえ話が示されています。この例えに先立って神学者エレミアスの言葉に従いユダヤの日常を確認しますと、村に店はないので、家庭の主婦は日の出前に家族の食べる1日分のパンを焼きます。だが村では夕方に誰がまだパンを残しているか知られています。いまでもパン3個は一人分の食事とされています。ここに登場する人はそのパンを借りるだけで、すぐに帰すつもりでいます。東方では客をもてなすのは欠かせない義務なのです。戸は閉めた・・は、扉にをかけたことを意味します。はずそうとすれば音がして皆が目を覚まします。
 ルカは、祈りについての文脈の中でこのたとえ話を伝え、まず絶えず祈るようにとの勧告として受け止めています。

 でもエレミアスという神学者は、「イエスのたとえ話の再発見」という書物の中で、ルカの結論と切り離して、たとえ話の本来の意味は別なところにあると言います。その理由はこうです。
 「あなた方のうちだれか」・・と言う文は、新約聖書の定型的な導入句なので、ここは次のように訳するのが最もよいと言います。
 「あなた方のうちだれか」・・は、「あなた方の内誰がそうすると、あなた方は想像できるだろうか」と訳すのが最もよいと・・・。そしてエレミアスは、次のように翻訳をし、説明をします。
 「想像できるだろうか。あなた方のうち誰かに友達がいて、真夜中にあなた方のところに来て、次のように言ったとしよう。「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達が私のところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです」と。そうしたら、あなたは『面倒をかけないでください・・』と大声で叫ぶだろうか?そのようなことを想像できるだろうか?」答えはこうだろう。「考えられません。どのような場合だろうと、友達の求めに答えずに放って置くことはしないでしょう」
 このように、7節が「求めを拒否すること」ではなく、むしろ「拒否が全く出来ないこと」を述べていると受け止める場合に限って、このたとえ話は客をもてなす東方の常識的なルールにあったものとなり、本来の狙いもはっきりするのである・・・と。

 そして、このたとえ話は、嘆願のしつこさではなく、その嘆願がかなえられることの確かさについての話となり、もし、夜中に起こされた友達が閂を外す音で家族全員の眠りを妨げるのをいとわず、困っている隣人の求めに一刻の猶予もおかず、直ちに応ずるのなら、神はそれよりもずっと快く振る舞ってくださるだろう。

神は求める人々の叫びを聞き、助けに来てくださる。求められる以上のことをなさる。この神にあなたは全幅の信頼を持ってたよっていいのだ・・・そのような意味になると言います。

 果たして皆さんは、イエス様はこの例えを、どちらの意味で語ったとうけ留めますか?ゆっくり黙想してみましょう。

註:ヨアヒム・エレミアス ドイツの歴史考古学者・聖書学者・神学者 1900~1979
  彼はイエスの複雑な歴史的環境を再構築し、イエスの人生と教えをより深く理解できるようにした。 

司祭の言葉 7/17

年間第16主日 (ルカ10章38-42節)

 皆さんおはようございます。新型コロナウイルスの第7波がやってきたようですが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。まだまだ油断が出来ませんね。
 さて今日の福音はマリアとマルタ、皆さんよくご存じのお話、エルサレム途上のイエス様をマルタが家に招き入れて、もてなしをする場面です。

 いま日本のおもてなしは世界中で評判になっています。
 いつでしたか、とある番組で外国人から見た「おもてなしの心、日本」ランキングのようなものが放送されていました。そのトップの第3位は デパートのおもてなし、第2位は 旅館のおもてなし、そして、外国人が感じる日本のおもてなし、堂々の第1位は「駅のおもてなし」ということでした。とくに、電車が正確に時間通り到着することに非常に驚くといいます。

 この「もてなす」という言葉は、はギリシア語で「ディアコノーdiakono」といいます。この言葉は「仕える、奉仕する」とも訳される言葉で、教会の助祭職は、ディアコノスと言われています。その誕生は使徒言行録の6章にあり、教会の、引いてはイエス様と弟子たちの生き方の中心にあるものと言えます。ですから、イエス様はマルタのもてなしの行為を否定しているのではありません。

 もし、マルタの奉仕自体が問題でないとするならば、問題はどこにあるのでしょうか。
 「そばに近寄って」・・・と訳されているこの言葉に注目したいのですが、ギリシャ語のエピスターサという言葉には、不意を襲うという意味もあるのだそうです。不意にイエス様に近づくマルタ。せわしく立ち働いているうちに、マリアへの不満、イエス様への不満が沸き上がってきます。どうして私ばかり忙しくしなければならないのか・・   マリアに自分から「手伝うように」と一言いえば済むことなのに、不満はイエス様に向かっているのです。
 「手伝ってくれるようにおっしゃってください」・・・ マルタの側に手伝うということですので、マルタが中心となります。
 イエス様のためにもてなしをするはずなのが、イエス様に文句を言ってしまうところで、本末転倒のことが起こっています。

 いつのまにか「私に雑用ばかりさせて」・・・そのような気持ちになったのかもしれません。
 「この世に雑用という用はない。用を雑にしたときに雑用が生まれるのだ」・・・と、誰かが言っていました。
 マルタは大切なおもてなしの仕事をしていたのですが、多くの仕事を焦りながらしているうちに、もてなす相手を忘れ、自分が主になってしまったのです。

 イエス様がマルタの招きに応えたこの時は、エルサレムに行こうとしている旅の途中でした。十字架にかかるためにです。イエス様の緊張は極みに達していたことでしょう。
  イエス様には休みが必要でした。静かな時が必要だったのです。少しの間もご自分を放そうとしない群衆から離れて、静寂のオアシスを求めて立ち寄ったのでしょう。マリアはそれを感じ取り、イエス様の話に静かに耳を傾けていますが、自分中心に物事を考えてしまうマルタは、イエス様の思いを感じ取れずに、親切が過ぎてしまったと言えます。

 加えて、当時のユダヤ社会の常識としては、女性には聖書の学びや、礼拝のための義務もなく、男性に従属することだけが求められていました。マルタのように奉仕することが当たり前で、マリアのように家事もせずに、先生の話を聞くというのは例外であったのです。でもイエス様はこれまでの在り方ではなく、マリアの在り方を認め、「男も女も神の言葉を聞いていいのだ。そしてそれがもっとも大切なことなのだ」とおっしゃっておられるのではないでしょうか。

 「必要なことはただ一つだけである」この言葉はマルタにとっては、さまざまな思いから自分を解放してくれる王からの良い知らせ〈エヴァンゲリオン〉福音だったと思います。
 この言葉の裏には暗に、ごちそうは必要ではなく、お茶づけ一杯あれば十分なのだよ・・というイエス様の思いも感じ取れるのではないでしょうか。

 きょうの福音は、わたしたちがどんな思いに縛られているのか、わたしたちにほんとうに必要なことはなんなのか、と問いかけてきます。
 「必要なことはただ一つだけである」・・ 多くの事に想い煩う今のわたしたちにとっても福音となる言葉です。