司祭の言葉 7/25

年間第17主日B年

 今日の聖書の御言葉はパンの奇跡です。イエス様の最大の関心事は神の国の到来、福音を述べ伝えることでした。そのために病人を癒し、空腹の人にはパンの奇跡も行いました。腹が減っては戦ができないといいます。福音も耳に入らなくなります。

 ところで今日の言葉で気になる表現があります。「パンくず」という言葉です。屑というといらないものという印象ですから、訳が悪いですね。原文はfragmentum 断片 フランシスコ会訳では「余ったパン切れ」バルバロ訳は「食べた残り」と訳しています。

 イエスさまが五つのパンを5000人に食べさせたとき、群衆はイエスさまを王様にしようとします。イエスさまが王様になれば働かなくても食べられるとおもったからだと解釈されています。イエス様ご自身このようにおっしゃいます。「あなた方が私を探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」

 もちろん、飢えている人たちを食べさせるために奇跡は行われたのですが、彼らの態度をみてイエスさまはがっかりしたに違いありません。彼らがしるしの中にみたのは、聞き従うべき牧者ではなく、自分たちの願いを満たすための王だったのですから。

 イエスの目線は横から目線です。上からではありません。共に暮らし、傍らにいるために人となられた方です。人々の必要をたちまちに感じ取られ、パンを分け合与えられたのです。
 イエス様はバプテスマをうけることによって、群衆と同じところに立ちました。そして、強みも弱みもあるがままの私を受け入れて下さいます。

 このパンの奇跡が今の私たちのためにはどの様な意味を持っているかと言えば、一つにはイエス様が神から使わされたものであると理解するため、さらには最後の晩餐のときの、聖体の制定を理解する助けとなるように、行われたというのが教会の理解です。

 イエス様は、私達の生活のしづらさを、とくに聖体によって養い、ゆるしの秘跡によって、じっくり話を聞いて、助けて下さるのです。

司祭の言葉 7/18

年間第16主日B年

 イエスは弟子を集め、派遣し、報告を聞き、いま休ませようとしています。弟子たちが疲れていると感じたからです。そのうち肉体が疲れるだけでなく、精神的にも疲れてしまうと思われたからでしょう。 今日の社会の中で疲れ切ってしまう人がたくさんいます。空っぽになる。 空回りする。 喜びを失ってしまう等など。
 イエス様はそのような時、まかせきることの出来ないことをかんじます。与えるものを持っていなければどうして与えることが出来るでしょう。

 ここにクリスチャンたちのリズムが示されています。一週間人々の中に生活した私たちは、週の初めに神の前に出てみ言葉に触れ、聖体祭儀で主の体を受け、派遣の祝福を受けてまた人々の中に、み言葉を伝え人々を癒すために出かけてゆくのです。
 昔はラテン語で、イテ ミサ エスト 行きなさい、あなたがたは派遣されています・・・と言って信徒を送りだしました。
最後の祝福は、そのための派遣の祝福と呼ばれているのです。

 イエスは自分達だけで人里離れたところへ行くように命じます。 = それは、神との交わりの場所です。でも、その時間は取れなかったようです。
 34節の「深く憐れみ」は、ギリシア語では、「スプランクニゾマイsplanknizomai」という言葉です。「目の前の人の苦しみを見たときに、こちらのはらわたがゆさぶられる」ことを表します。相手の痛みをわがことのように感じて共感する言葉で、イエスの愛の行いはいつもここから来ています。そしてイエスも弟子たちも働き続けたのです。

 あるとき、夢を見ました。「危ない危ない、早くブレーキを踏んで・・」と思っているうちに、前を歩いている人の方に車がだんだんよって行き、腕に接触してしまいました。となりの席の運転手をみると居眠りしています。示談の為に喫茶店を指示されました。そこに行く途中後ろの席の方が、神父さんたいしたことが無くて良かったですね、気をつけてください・・・といいました。それで運転していたのは隣の人ではなくて自分だったのだと気がつきました。夢でしたけど神様から、「あなたが疲れているんだよ」そう言われたように思いました。

 いま長江司教様を囲んでいたような時間がほしいと思います。司祭に成りたてのその頃は、ともに祈り、時間を忘れて宣教について分かち合い、激論を交わしました。
 先日、ボランティアの方が食事作りに来てくれました。 その日は私が食事の準備をしなくてもよいので助かります。そればかりか、おしゃべりをして疲れを忘れます。主に信仰の話です。そこで小生は大きな力をいただきます。

 ほんとうに皆さん疲れています。新型コロナウイルスで世界中が混乱しています。ミサに出るのも制限されている状況ですが、疲れたら十分に休みを取り、み言葉に触れて力を受け、主のお体に養われて派遣の祝福を受け、また前に進みましょう。

司祭の言葉 7/11

年間第15主日B年 12人の派遣           

 イエスは弟子たちを呼び寄せました
 「かれらを自分の傍に置くため、また派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」(Mc 3の14-15)

 特別な教育が始まりました。宣教に使わす前に彼らを自分のそばに置き、自分の人格の神秘自分の心、思い、メッセージの全てをとことんまで伝えようとされたのです。
 「わたしの言うのを聞いてさとりなさい。外から人に入って人を汚すものはない」
Mc7の14

 「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」  Mc10の42
 「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。  Mc8の34

 宣教は、イエスを伝える事です。→ 宣教の前にイエスの全てを知る必要がありますし、→ 揺るぐ事のない確信を形成するひつようがあったのです。
 そして弟子たちの派遣が始まりました。

2人ずつ 二つの理由によります。まず、重要な事柄についての証言は、2人以上でした。
 「長老に反対する訴えは、二人あるいは三人の証人がいなければ、受理してはなりません。」(Ⅰテモテ5の19)「死刑に処せられるには、二人ないし三人の証言を必要とする。一人の証人の証言で死刑に処せられてはならない。」(申命記17の6)

 着物  チューニック・・・下着  一枚の布で足に届く長さ 一方が縫い合わせてありました  新品の証拠として、頭のはいる穴なしに売られていたそうです。

 ヒマティオン・・・巾70センチ 長さ2mの布を縫い合わせたもので、縫い目は後ろにきました。昼は上着 礼服(神殿で、目上の前に必ず着用)となり、 夜は毛布替わりになりました。
 イエスの時代、外套にくるまっての野宿は良く行われました。

 袋 剥いだままの子山羊の皮袋で 羊飼い、巡礼者、旅行者の袋は・・数日分のパン、オリーブ、干しぶどう、チーズをいれました。 
 祭司たちの袋は・・・募金袋でした。 どん欲な祭司たちのようにしてはいけない、受け取る為ではなく与える為に行くのだから、すべてを神に頼れ・・・・それがイエスの派遣の言葉でした。

司祭の言葉 7/4

年間第14主日B年

 大工の子は大工、そんな時代です。イエスを迎えたナザレの人たちは、イエスをよく知っていると思い込んでいました。会堂で聖書の巻物を持ち出す老人も、会堂司も、会堂に集まった人たち皆が、かつてのイエスを知っていました。村に住んでいた皆が家具の修理や家の修理の依頼を、ヨゼフのもとに出し、イエスとヨゼフが力を合わせて仕事をしていたのを知っていました。だから、現在のイエスを受け入れることができませんでした。

 そこに、村人のイメージにそぐわないメシアの出現です。そして言います。大工ではないか。 技術者・便利屋・労働者であったがため、軽蔑しました。
 しかしそれはイエスの栄光なのです。神が地上に来られるとき、例外であろうとしなかったのですから。
 人々の思っていた救い主の出現は、壮大な、みんなを驚かせるような演出の中で行なわれるはずでした。 仲間内の一人であってはいけなかったのです。 髪の毛に鉋屑をつけて働いていた青年であっては幻滅だ、というわけです。(降誕の時もそうでした。認めたのは心の純朴な羊飼い達だけでした。)
 「彼はご自分の家にこられたが、その人々は受け入れなかった。」(ヨハネ1ノ11) 
 イエスの敵は、イエスを十字架に付けて当たり前だと思っていました。
 身内は気が触れたと思い、取り押さえ、拘束衣をつけさせようと思いました。

 私たちも、イエスを知っているけれども、認めないことが多いのではないでしょうか。神のイメージを自分でつくってそれに固執し、もしそのイメージと違う神が現われたら、それを迎えようとしない。
 神を外に捜し求めていませんか。  私たちの中にいるのに――
 神は遠くにいると思うので、目を細めて探ります。私たちのそばを通っているのに――
 キリストは、昇天の日にこの地上から去ってしまったのではありません。
 姿を消すのと 立ち去るというのは、別のことです。
立ち去れば――→当然不在となります。姿を消したというのは、かくれた現存・・を思わせます。
 ただ、姿を隠しただけ――あたりまえの男に変装してここにいるのです。

 祈りの時に、気を散らしました・・・ 良くそんな告解を聞きます。そんなことはたいしたことではありません。道を歩くときに こそ、気を散らしてはいけないのです。キリストとすれ違っているかも知れないのですから・・

 あまりにもよくしった顔ばかり――夫の、妻の、子どもの、姑の、病人の、家なしの、身なりの悪い人の・・・でもそこに、隠れたキリストがおられるかもしれないのです。

司祭の言葉 6/27

年間第13主日 ヤイロの娘の奇跡の話

 会堂司のヤイロがイエスに助けを求めた話です。イエスに最も反対していたのは既成のユダヤ教の指導者たちでした。心がかたくなで、自分たちと少しでも考え方の違う人には反対しました。それは今日に至るまで変わっていません。同じ宗教を奉じる者たちの中での宗教的対立は消えることがありません。日本の宗教の中でもそうです。
 あるときプロテスタントの牧師さんから電話がありました。一人の女性のために払魔式をしてほしいと言うものでした。カトリックの昔の儀式では洗礼前に払魔の式がありました。カトリックの司祭に祈りを願ってきたのですから謙遜な方だと思いました。もちろん承諾しお祈りいたしました。

 ヤイロは会堂司、ユダヤ教の指導的立場にある人です。イエスに助けを求めることをまわりの人たちは反対したことでしょう。それを押し切ってイエスの下に来ました。何としても助けたかったのです。イエスが会堂司の家に行く間に一つの話が挿入されています。その対応をしている間に、「お嬢さんはなくなりました。もう先生を煩わすには及ばないでしょう」との知らせが入ってきました。この知らせがいかにも早いのは、どうしてもイエスに来てほしくなかった者たちがいたからでしょう。

 ヤイロは娘を生かしてほしいと願い、イエスも生かしたいと思いました。そして死んだはずの少女に奇跡が起こったのです。

 今日、奇跡をおこなうことができるのは、お医者さんだと思っています。でも患者はそのお医者さんとの出会いが作れなければ、癒しを受けることもできません。出会いのチャンスを作る。・・その役目なら私たちも引き受けることができます。
 国境なき医師団(MSF)がインドでも支援に当たっていますが、そこから支援を求めて次のような知らせが来ました。

 現場で医療チームリーダーを務めるアパルナ・イェルが、その必要性を語っています。

 MSFがムンバイで支援している薬剤耐性結核の患者の多くは、仕事を求めて地方からムンバイにやって来てスラムに暮らしている人びとだ。コロナで日雇いの仕事がなくなると、故郷に帰らざるを得なくなる。しかしこれは、大切な治療を途中で中断することにつながる。地方では必要な薬を手に入れることが難しいからだ。
そのためMSFは、ムンバイから離れる患者と連絡を取り合い、故郷の保健所に薬を送って治療が続けられるよう支援している。また、電話でのカウンセリングも行い、コロナで仕事を失いながら結核治療を続ける患者たちの心のケアにもあたっている。

 いま、多くの医療資源が新型コロナ対応にあてられているため、結核やHIVなどを患う人びとの治療環境は厳しくなっている。そのような状況下でも必要な治療を続けられるよう、それぞれの患者のニーズに合わせたサポートを行っていく。 

 世界中には助けてほしいと願う人がおり、イエスは助けたいと思っているに違いありません。しかし今それを行うことができるのはわたしたちなのです。

司祭の言葉 6/20

年間第12主日B年

 今日の福音で疑問に思うことがあります。何故ペトロたちは嵐を恐れ、イエスを起こしたのでしょうか・・と言うことです。今回の嵐はガリラヤ湖固有の嵐だといわれています。その地形が嵐を呼ぶのだそうです。

でも彼らは漁師ですよ。何度もそのような嵐には遭遇しているはずです。何をそんなに恐れたのでしょうか。しかも起こした相手はイエス、大工ですよ。船のことなど知っているはずはない。漁師のメンツにかけて、何とかしようと思うはずです。でもイエスを起こした。なぜでしょうか。船を出すように言ったのはイエス、確かに責任はあります。とは言え、疑問です。漁師が白旗を上げたのですから。いくら恐怖にかられたとはいえ、理解できません。あるいは船出したのはイエスのせいなのだからと、文句を言いたかったのでしょうか。

 人間はその誕生以来常に恐怖にさらされてきました。周りの獣たちはみな牙と鋭い爪、そして嗅覚を持っています。弱い人間はいつも逃げ回り、その中で道具を工夫し、火を発見し、文明を発展させ恐れを克服してきました。原初の人間にとって恐怖を持つことは、大切なことでした。それによって身を守り、生き延びてきたのです。
 この恐れを利用し金儲けをたくらむ人たちがいます。オレオレ詐欺がそうです。息子が孫が窮地に陥っている・・そう思わせて、その窮地から脱するためにお金が必要だといいくるめ、お年寄りからお金をだまし取る、許せない輩らです。
 先日は私のところに一通のメールが来ました。私のパソコンを支配し、自由に操作し、ついているカメラも自由に操って、部屋の中をくまなくのぞき見し、動画を撮った。これをインターネット上にばらまかれたくなければ、ビットコインで1700ドルほどを振り込め。そうすればすべてを廃棄し、二度と侵入しないなどと言うものでした。個人情報が流されるという恐れを持たせ、金を奪おうという手口です。

 聖書は「主を恐れることは知恵の初め」・・と言います。(箴言1の7)
 正しい恐れ、それは大切なことですが、むやみに恐れる事、不安にかられることを主は戒めておられます。主がともにおられる限り、わたしたちは主に信頼すべきなのです。
 今日の福音の要点は、イエスが嵐を鎮めたということよりも、弟子たちの弱さを通じて、神への信頼の大切さが語られていることです。

司祭の言葉 6/13

年間第11主日 (マルコ4章26-34節)

 聖書学者エレミアスは、聖書のたとえ話はイエスに対する非難などに対する弁明として語られていると言います。

 イエスの集団は、漁師や税吏、罪びとたちの集まる集団でした。イエスのもとに集まった人々はほとんど病人とその家族のようです。そして、イエスはこの人々を指して、「見なさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」(3の34)と宣言されました。
 神の国のために戦う戦士になろうと考えていた「熱心党のシモン」(マルコ3の18)のような弟子たちは、この現実をどのように見たのでしょうか? 多くの人々から見ればイエスの周りで起こっていることはあまりにも小さく、弱々しい人の群れでしかなく、神の国からほど遠いものに見えたと思います。

そしてイエスは言います。
「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」  
 フランシスコ会訳は「どうしてそうなるかをしらない」
 日本聖書協会訳も「どうしてそうなるのかその人は知らない」同じ文章を、
 講談社のバルバロ訳は「気づかぬままに」と訳しています。
どうしてそうなるかその人は知らない と言う訳と
気づかぬままに と言う訳では かなり意味合いが違います。
 そうなるか・・というのは、成長の理由を指しますが、気づかぬままに・・というのは、そのことに気を配らないうちに・・いつの間にか・・・という意味になります
 ラテン語訳は 「dum nescit ille」 彼が知らないうちに・・いつの間にかです。

 次の「からし種」のたとえ マルコでは野菜 マタイ・ルカは木と表現されていますが、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張ります。
 実は、日本語訳には原文にはない言葉が付け加えられています。 葉と巣です。
 フランシスコ会訳は「その陰に鳥が宿るほど」
 日本聖書協会訳は「その陰に鳥が宿るほど」
 バルバロ訳は「空の鳥が陰に身を寄せるほど」と訳しています。
「からし種」の特徴は、その成長力です。わずか1.5ミリほどの小さな種ですが、ガリラヤ湖畔においては、2.5~3mほどになるそうです。
 神の国も同様、人間の反逆や不従順にもかかわらず、神の働きは続いてゆく。
 そこには達成の日があることを告げています。収穫の日、よき実は取り入れられ、雑草と毒麦は捨てられる。天の御国は、「からし種」のように、小さくて人々に気づかれないものであるが、結果的には、非常に大きなものに拡大し、この地上に満ちわたるものとなることが明らかにされています。

イエスに対する周りの人たちの非難や中傷、そんな中でイエスは今日のたとえ話を語っています。焦らないで神に任せなさい。神の業は素晴らしい・・そうは聞こえませんか。

司祭の言葉 6/6

キリストの聖体B年(マルコ14章12-16, 22-26節)

 司祭になって間もない40数年前、箱根の強羅温泉でベテル聖書研究会という、講師養成講座に参加しました。カトリックとプロテスタント両方が参加したエキュメニカルな研修でした。
 一週間の研修が終わって帰るバスの中で、隣に座ったプロテスタンド教会の牧師が話しかけてきて、しみじみと、カトリック教会はご聖体があるからうらやましいといいます。いつもキリストの現存を感じることができる。プロテスタントは最後の晩餐の記念はするが、終われば何も残らない。カトリックは神の恵みのしるしとしてのご聖体がいつも聖堂に安置されているので、いつもそこで神の現存を感じることができる・・・とも。

 お寺さんに行くと、本堂には仏像が置かれ礼拝の対象となっています。ご本尊と言うこともありますね。ご本尊と言う言葉を調べると、「ご本尊と言うのは寺院や仏壇の中で中央に安置している、信仰の大切な対象となるものです。同じ仏教でもそれぞれの宗派やお寺によって、ご本尊は異なります。例えば浄土宗ではあみださまのほか「南無阿弥陀仏」の名号をご本尊とすることもあります。日蓮宗では「南無妙法蓮華経」を中心とした曼荼羅を安置します」とあります。

 ところで私たちの信仰の対象であるご聖体は「ご本尊」でしょうか?
 どう思われます?
 所沢教会は今小手指と言うところにありますが、かつては、今のNTTのある「星の宮」と言うところにありました。今から47年前の話です。当時の岡神父さんはNTTに請求する移転費用の中に、ご本尊の移動のお金も入れました。私たちの信仰の対象ですから。
 NTTはカトリック中央協議会のほうに、「ご聖体はご本尊かどうか」という問い合わせをしました。返事は、「ご本尊ではない」というものでした。そして移転費用は出ませんでした。
 ご本尊かどうかは別として、ご聖体は私たちの信仰の根幹にかかわるものです。

 申16章には過ぎ越し祭の記述があります。
 「アビブの月を守り、あなたの神、主の過越祭を祝いなさい。アビブの月のある夜、あなたの神、主があなたをエジプトから導き出されたからである。あなたは、主がその名を置くために選ばれる場所で、羊あるいは牛を過越のいけにえとして、あなたの神主に屠りなさい。その際酵母入りのパンを食べてはならない。七日間酵母を入れない苦しみのパンを食べなさい。」 (青穂の月 カナン人の暦の古い呼び名 バビロン歴では1月 ニサンの月 太陽暦の3-4月) 

 今日の福音は、イエスと弟子たちとの最後の晩さんが「過越の食事」であったとはっきり述べています。新約聖書は、イエスの受難を過越祭と結びつけ、イエスの死が人々を罪の支配から解放し、神との和解をもたらす「新しい過越」の生贄であると考えています。

  「パンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えた」 
 イエスはここで特別なことを言いました。「これはわたしの体である」 ・・「これはわたしだ」という意味です。これを食べることは、イエスと一つに結ばれることなのです。

 また、「契約の血」は今日の第一朗読、出エジプト記24章8節にある言葉です。
 「これは・・・わたしの血」、ここには「多くの人のために流される」という言葉が加えられています。「多くの人」はヘブライ語的な表現で、意味としては「すべての人」ということで、イエスは自分の死を、すべての人の救いのための死であるとおっしゃっているのです。

 古い契約は十戒と言う10の掟を定めました。 そして新しい契約は「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」というただ一つの掟を私たちに示しています。

 私たちはご聖体をいただき、イエスと一つに結ばれることによって、この掟を守ることが可能となるといってもよいでしょう。イエスのように愛する・・・並大抵のことではありませんから。

 「新しい契約」はイエスによって実現しました。 しかし、最終的にわたしたちが神と完全に一つに結ばれるのはまだずっと先のことです。そこに向かって歩むための糧として、ご聖体が与えられている事を感謝し、おそれずに主に近づきたいと思います。

司祭の言葉 5/30

三位一体の主日B年

 復活、主の昇天、聖霊降臨と祝日は続いて、今日は三位一体の祝日となります。

 福島市の桜本寺の住職 佐藤老師に一枚の系図を見せていただいたことがあります。
 悟りを開いたものにそのしるしとして印可と言う証明書が与えられますが、その印可が、達磨禅師から何代目の弟子によって与えられたものかを示す、悟りの系図です。
 それはまた、老師として次の弟子を指導してもよいと言うしるしにもなります。

 しかし、キリスト教では、悟ったものにだけ洗礼を授け、弟子にするのではありません。
司祭職も、按手によって与えられるもので、悟りを求めるものでもありません。

 今日の福音の、「しかし疑う者もいた」・・と訳されている部分ですが、原文は、「しかし彼らは疑った」です。
 日本語的には・・「みんなが疑った」と言う意味になるでしょう。

 教会は、弟子たちのように疑っていても、イエスの復活を信じイエスに従いたい、イエスのように愛に生きたいと思うもの、疑いは有っても信じたいと思うものには、洗礼を授け弟子にしています。

 この洗礼は父と子と聖霊の名によって授けられます。
 救いの歴史は父と子と聖霊の共同作業なのです。

 それを如実に示しているのが、第4奉献文です。 
 今日は第4奉献文でミサを捧げたいと思います。

 その叙唱では、
 あなたは溢れる愛、命の泉、万物の作り主・・と、創造者としての神を称え、

 奉献文の中では、
 人が神に背いてからも、慈しみの手を差し伸べ、人とたびたび契約を結び、救いを待ち望むように励まし、

 時が満ちると、ひとり子を遣わしたこと。
 ひとり子は聖霊によって人となり、父の計画を実現するために死に身をゆだね、復活して死を滅ぼしたこと。 

 そして、信じるものに聖霊を遣わし、聖霊はイエスが天に昇られた後、世にあってその技を全うし、全てを聖なるものになさいます・・・と、称えています。

 ここには、救いは三位一体のなせる業であることが、示されているのです。

司祭の言葉 5/23

聖霊降臨の主日B年

 今好んで見ている番組があります。  イチケイノカラス  検事もの、刑事もの、弁護士ものなど、いろいろありますが、裁判官ものと言うのはあまりなかったように思います。弁護士物はたくさん作られています。依頼者が途中で投げ出し放棄しようとしても、熱心な弁護士が依頼者を説得し裁判に勝利する・・など。

 きょうの福音の箇所は、最後の晩さんの席でイエスが語られた弁護者を送ると言う約束です。「弁護者」はギリシア語で「パラクレートスparakletos」です。
 「パラpara」は「そばに」、「クレートス」は「カレオーkaleo(呼ぶ)」という動詞から来ていて「そばに呼ばれた者」の意味です。
 ヨハネの第一の手紙2章1節には「御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」という言葉があります。

 システィーナ礼拝堂正面壁画には、ミケランジェロの最後の審判の絵が描かれています。そこにはイエスが審判をしている様子が描かれていますので、審判者としてのイエスのイメージが強いかもしれませんが、イエスはご自分の血をもって私たちのために執り成しをしてくださったのですから、イエスこそは第一の弁護者なのです。
 そこで、今日の福音書では、イエスの約束として、聖霊について「別のパラクレートス」という言葉が使われています。
 教会が祈るときにいつもイエスの名によって祈るのは、イエスこそが第一の弁護者、とりなすお方だからです。

 ペンテコステに始まる教会の誕生は、大きな試練の始まりでもありました。試練に立つ教会は弁護者の助けを必要としていました。
 イエスは迫害の予告をしてから、弁護者としての聖霊を約束しています。そして言うべきことは聖霊が教えてくださると勇気づけます。

 弁護者である聖霊は、現代に生きる私たちにも派遣されています。私たちがどの様に歩むべきかを迷い途方にくれたときに、聖霊は「助け手」となって、真理を悟らせます。神は聖霊を遣わしてイエスが語られた言葉をわたしたちにも思い起こさせます。そのような体験は無いでしょうか。

 キリストを信じるものは、天と地の両方に「弁護者」を持ち、父と子と一緒に住むことを許されていると言うことを、忘れないようにしましょう。