司祭の言葉 9/4

年間第23主日C年

 訳文をそのまま読んだのでは全く混乱してしまう箇所ですが、今日の個所はイエス様の後に従おうとするものに覚悟を問う場面です。

 「大勢の群衆が一緒についてきたが、イエスは振り向いて言われた。」・・・とあります。
イエス様について行った群衆・・・病人を癒し、奇跡を行い、パリサイ人たちを論破しエルサレムに向かうイエス様・・イエス様をメシアではないかと考えた群衆は、熱狂し、これからエルサレムに入り、ユダヤの独立のために立ち上がることを期待していました。その彼らにイエス様は冷や水をあびせます。弟子となることの難しさを気付かせることで、自分につき従うのを思いとどまらせようとした・・と聖書学者のエレミアスは言います。

 「もし誰かが私のもとに来るとしても、父、母、妻、こども、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない」
 驚きの言葉ですね。イエス様の教えと矛盾するかのように聞こえますね。
   第四 汝父母を敬うべし
   あなた自身のようにあなたの隣人を愛しなさい

 実は、近東の人たちは比較級を表すのに、しばしば対立する概念(愛と憎しみ)を用いることがあるので文字通り解釈するのではなく、
憎む=より少なく愛する・・という意味と理解されています。マタイ福音書には次のようにありますから、比べてみればわかりやすいでしょう。
   わたしよりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。
   わたしよりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。 マタイ10の37 

 そして、塔を建てようとするものと、戦いを始めようとする王のたとえ話によって、イエス様はよくよく熟慮せよ・・と説いたのです。

 わたしたちはどちらを選べばよいのかと判断に迫られることがよくあります。
選択の余地があまりない場合には、悩みぬくことも多いと思います。 

 11年前、福島原発の事故で放射能汚染が広がり、人々は避難を余儀なくされました。被災地の南相馬と浪江に行った折、「この先は汚染地につき立ち入り禁止」という看板があり、通行止めになっているところがありました。そこは牧場でした。 いまだに片付いていない車  のこされた300頭のべこたち エサを与えなければ死んでしまいます。 国は殺処分を申し渡してきました。
 飼い主はぎりぎりの決断をせまられます。 果たして被ばくした牛を飼うことに意味があるのか。 経済的には何の価値もありません。ミルクも肉も人の口に入ることはありません。 でも、役に立たなくなったからと言って、殺してしまっていいのか。飼い主にしても、収入はゼロ 300頭もいれば冬場のエサ代もばかになりません。
  「牧場の牛は原発事故の生きた証 これからも生かし続ける」

 熟慮の末、牧場主はこれからも苦しみ続けることを選択しました。協力者たちは一般社団法人を設立し、寄付を募ってきましたが、10年たって、この春法人は解散したとのことです。そして飼い主は、個人的に、有志と共に、あと10年は飼育を続けると言っています。 希望の牧場といいます。

 そこにイエス様がいたらどうするのだろうかと思います。
 殺すだろうか、生かすだろうか・・。

 塔を建てようとするものと、戦いを始めようとする王のたとえ話によって、よくよく熟慮せよ・・と説いたイエス様は、もし自分に従って来ようというのであれば、自分の持ち物一切を捨てる覚悟が必要だとおっしゃって、人々の熱狂を戒めた・・それが今日のみ言葉です。さて、私は覚悟が出来ているでしょうか。