司祭の言葉 1/9

主の洗礼

 今日の福音の、語られている状況を見てみましょう。荒野で呼びかける声があり、これに応える動きがありました。ユダヤ人は洗礼について知っていました。異教からの改宗者は洗礼を受けることが必要だったからです。でもユダヤ人自身が悔い改めの洗礼をうけることは無かったのです。しかしこのとき、人々の心は回心に向かって動いていました。
 イエスは、そこに神の意志をみました。そしてみんなと同じところに立つために、洗礼を受けました。

 イエスが洗礼を受けたという事実よりも、大切なのは、その後に起こったことです。

 (a)天が裂け、 (b)聖霊がイエスに降(くだ)り、 (c)「わたしの愛する子」という声が聞こえました。
 

 いま、そしてこれから何をなすべきか、
 父なる神の応えです。
「天が裂け」というのは、神がこの世界に介入してくることを表す表現です。
聖書では洗礼の箇所と、受難を前にした山の上でモーセとエリヤが現れたときに、声が聞こえています。
 イエスのこれからの行き方を、それでいいのだと、神が承認したことを示しています。

 イエスは弟子たちに「あなたがたは私が飲む盃を飲み、私が受けるバプティスマ(洗礼)を受けることが出来るか(マルコ10・38参照)、」と言われたことがあります。それは十字架と死を意味していました。かくして、人々とともに神のいのちへと立ち上がる。この洗礼の出来事の中に、イエスの生き方全体を表す象徴的な意味を感じ取ることができます。  

 さらに洗礼者ヨハネの言葉の中にも・・・
 ヨハネは自分の立場について「自分はメシアではない。来たるべき方を指し示す荒れ野で叫ぶ声」・・で、それが使命だと言ったのです。
 ヨハネの弟子たちはうろたえます。その後多くの弟子がヨハネからイエスの方に移って行くのを見たからです。

 (ヨハネによる福音 3の22から30) 
「その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。
 ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。

 彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。
 わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。
 花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」                      

 ヨハネは、自分の立場について「自分はメシアではない」「自分はあの方の前に使わされたものだ」・・と明言します。自分の役割についての、確固たる確信を持っていたのです。

 私達はどうでしょうか、自分の立場について確固たるものを持っているでしょうか。

 私には一つの大きな失敗があります  厚労省の担当から社会福祉法人の立て直しを頼まれ理事長を引き受けたときのこと、前理事長も了解していたはずなのですが、実際改革に手を付け始めると・・・改革に対する前理事長の抵抗もあり・・結果的には、小生がうつ病になりました。 そして友人も失いました。
 自分は引っ張る側ではなく 支える側と理解していたのですが、頼まれて引っ張る側になった、・・・それが失敗の原因でしょう。  

 映画やドラマにおいても、主役と脇役があり・・・名わき役がいて主役は輝けますし、自分も輝けるのではないでしょうか。

 自分の得意なところは何か、今日の福音の、特にヨハネの態度に学ぶところは多いとおもいます。

 そして、教会の役割はどこにあるのでしょうか。
 教会が立派になることではないと思います。
 それは、ヨハネのように・・イエスを指し示すこと、イエスの福音を伝えることにあると思います。
 さて、それでは、どう福音を伝えましょうか。ともに考えてみましょう。