司祭の言葉 2/20

年間第7主日C年

 皆様いかがお過ごしでしょうか、かなり新規感染者が少なくなってきました。でも重症者は増えているようです。もう少しの辛抱でしょう、そうすれば共に集い共に主を賛美することができます。

 今日の福音はルカの6の27から38節までです。
 イエス様の今日のみ言葉をどう聞くべきでしょうか。文字通りに受け取るべきでしょうか、それとも、出来るだけそうすべきだという心構えとして聞くべきなのでしょうか。取り方は人それぞれでしょう。でも一つだけ体験したことがあります。
 高校生の時でした。クラスメートから誰もいない図書室に呼び出された事がありました。そして、「お前は生意気だ」と言いがかりを付けられ、平手で頬を打たれました。教会に行き始めて3年ほどでした。今日の聖書の言葉を思い出し、もう一方の頬を向けました。「何だ」そう言って相手は驚いた顔をしました。「さあ、こちらも打て」と言いますと、予期しない言葉に相手は戸惑った様子でした。「さあ、いいから打て」「いいのか?」「ああ、いい、こちらも打て」「よし殴るぞ」そう言って相手は殴ってきました。でも防衛本能があるのですね、こぶしが飛んできたとたんに身をかわしていました。相手は憮然とします。「悪かった、今度はよけないからもう一度やってくれ」そう言って今度は目をつぶって拳を受けました。」ガツンと衝撃が走り、目に火花が飛びました。火花が飛ぶというのは本当なのですね。
 そしてその時、私の中でつきものが落ちるように、スーッと相手に対する腹立たしさが消えました。最初、絡まれ平手で殴られた時には、胸の中に相手の理不尽さに対する怒りがこみ上げていました。でも、もう一方を差し出して殴られた時には、それは自分から殴られたのですから、その責任は自分にあります。相手を恨む筋合いはないのです。イエス様の言葉通りにしたら、相手に対する怒りと恨みが消えた・・という体験を通して、イエス様の言葉の意味を一つ、悟った一瞬でした。そして二度と絡まれる事もありませんでした。

 敵を愛する・・・それは感情的には無理でしょう。憎しみの感情も沸くかもしれません。でもイエス様が許したのですから、それに倣って、自分も意志をもって「許すと決める」ことはできます。

 川崎の高校での中間期を終えて、大神学校に戻って間もなくのことです。(昔は大神学校に入る前に3年ほど社会に出て仕事に就く必要があり、その時期を中間期と呼びました)
 勤務していた高校付属の中学校の一年生が、同級生の友人を殺し、その首を切り落とすという事件がありました。仲が良い友人同士であったと聞きますが何があったのでしょうか。その衝撃もさることながら、さらに驚かされたのは、神学校に送られてきた被害者の両親からの手紙です。子供のことで多大な迷惑をかけたと謝りながら、加害者となった少年のために、寛大な裁判判決を求める署名を求めてきたのです。一人息子を殺された悲しみの中にありながら、加害者となった少年を恨むどころかその未来を案じている、その心の深さに胸を打たれました。許すと決めるまでの心の葛藤はいかばかりであったかと思います。
 この方のうちに働く神様の力を深く感じるとともに、その信仰におののきました。

 膝が痛い、腰が痛いと言っては泣き言をいう自分です。到底迫害などには耐えられそうにありません。十字架を背負ってイエス様の後に続くのはしんどすぎる・・そう思います。いつも弱音を吐きますが、主の助けがあればできるのでしょうか。
 コロナ下で石油の元売り価格が上昇し、その影響が私たちの生活に及び始めています。軒並みモノの値段が上がっています。もう何とかしてください・・と叫びたいですね。
 神様に助けを願いつつ、今日の福音を黙想しましょう。

 3月2日から四旬節に入ります。当日は灰の水曜日、10時と19時にミサを捧げたいと思います。それまでに、お持ちできる方は教会の玄関に古い枝をお持ちください。

 皆様の上に主の祝福がありますように。

春日部カトリック教会 司祭 鈴木三蛙