司祭の言葉 5/22

復活節第6主日C年

 火曜日の夜はお宝鑑定団の番組が長く続いています。根強い人気があります。

 私も一つの お宝? を持っています。セウイの庭に転がっていた石なのですが、誰かが削り磨いたのでしょうか、平らになっている面があります。
 あるとき気がつきました。よく見ると中に揺れているものがあるようなのです。多分水ではないかと思うのですが、水の閉じ込められている石。何石というのでしょうね。
 鑑定に出す人は、自分の持っている宝物がどのくらいの値打ちのものであるか知りたいと思っています。あわよくば高値で売れないものか・・そんな野心も透けて見えます。それが買値にはるかに及ばぬ偽物だったりすると、「だから欲をかいては遺憾のだよ・・」と、ほっとしたりします。

 1947年死海の北西、死海沿岸のクムランというところで、急な崖を駆け上って洞窟の中に姿を消してしまった迷子のヤギを追って、三人の牧童が死海沿岸を探し回っていました。崖の中腹にある洞窟に入ると、牧童はいくつかの大きな壷を見つけました。壷は壊れたものもありましたが無傷のものもあり、中にはヘブライ語で書かれた巻物が入っていました。
 それらの正体も価値も知らずに、牧童はゆったりとした衣服のポケットに入る限りの巻物を詰め込み、後日、ベトレヘムの商人に二束三文で売ってしまいました。
 それらはのちに死海文書であることが証明されてセンセーションを巻き起こし、値段のつけられないほどの価値のあることが分かりました。牧童は自分の持ち込んだものがそれほどの宝であるとは、全く考えもしなかったのです。

 多くのキリスト者は自分の持っているものが値踏みの仕様の無い宝であることに気づいていません。もし主ご自身が今日の福音にあるような、易しい言葉で語ってくれなかったとしたら、誰もそれを信じなかったでしょう。

 「私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む。」・・・凄いことではないですか。主がともにおられるということを知る平和。

 しかも、事あるときには弁護者を遣わすと言ってくださる。パラクレートス 傍に立つもの・・・わたしが子供のころは姉がそうでした。意地を張る私の代わりにいつも姉が、「もうしませんから」と謝ってくれました。

 神が私たちのうちに住まわれる・・・と言うことは、一人一人のキリスト者のうちに秘められた、大きな力です。ほとんどのキリスト者は、その宝にすがるしかないような苦難に出会っていないため、その真価を正しく認めずにいます。

 自分が運んだ宝の真の価値を知らずにいた、あの牧童のように、キリスト者でさえ、その大多数は神のことを、はるか天上の神殿で玉座についている存在と考えており、自分の内にある素晴らしい宝に気づいていないのです。

 しかし、わたしたちの主は、今日の福音で、本当に主を愛し、福音を生きようと努力する人のために、無限の神、聖なる三位一体の父と子と聖霊は、私たちのうちに住まいを構えるとおっしゃっているのです。
 この神秘を悟らせてくださるように祈りましょう。

 そしてまた、世界の平和のためにも祈りましょう。軍事力を背景にしたかりそめの平和ではなく、主が与えてくださる平和こそが誠の平和であることを覚えて。