司祭の言葉 2/6

年間第5主日C年

 皆さんは、つりはお好きでしょうか。
 ペトロのDNAは、ペトロの後に続く司祭達にも受け継がれているのでしょうか、さいたま教区の司祭方は、普段は宣教と司牧の話に激論をとばしますが、昼食の時はよく釣りの話をしていました。皆さんすでに亡くなられましたが、猪俣神父さん 篠原神父さん 山根神父さん 島本司教さんは、新潟、仙台、さいたまの3教区の研修会で佐渡島に行ったときは、釣り船をかりて沖まで行き、小ぶりのタイをたくさん釣りました。
 ある時は、野上神父さんが伊豆のほうに良い釣り場があるというので、みんなで猪俣神父のキャラバンに乗って出かけました。この先の角を曲がるといい場所があるんだよ、その言葉に皆心躍らせました。そして岬の角を曲がった時野上神父さんが叫びました「あれ、海がない」。・・・歳月が過ぎていて、埋め立てられてしまったようでした。そのあと目的地を変え戸田の港に行き防波堤から釣りをしましたが、サバが入れ食いで面白いほどに取れました。でも残念なことに私にはペトロのDNAが受け継がれていないようで、後で手についた魚の匂いに悩まされました。

 本題は、ペトロ達の漁の話です。彼らは夜通し、長い底引き網をおろして奮闘していました。しかし、網は空っぽでした。湖のその辺りからは、魚は全く居なくなってしまったかのようでした。もしほんの数匹でもかかっていれば朝食には事足りるはずでしたが、ペトロには、もう一度網をおろしたとしても、まず魚は一匹もかからないと思われました。
 だがそれにもかかわらず主は、もう一度網をおろして漁をするように命じました。大量を望める時間帯は、日中ではなく夜間だということを誰もが知っていました。そして、一晩かけても何もかからなかったのだから、もう網をおろすポイントがないことを漁師達は長い経験から知っていました。

 そこに、信仰が入り込んだのです。信仰とは、何なのでしょうか。 人間の観点からは不可能と思われることでも、神にできぬ事は何もないと固く信じることなのです。

 イエス様がペトロを選ばれたのは、弟子達のリーダー、大黒柱にしたかったからです。ペトロが試されたのは、彼が、自分の判断の方が理にかなっていると思ったとしても、それを置いて、師の判断に全面的により頼めるかどうかと言う点でした。

 アブラハムもまた同じ方法で試みられています。 そして、その試みに耐え、後に続く者の偉大な信仰の模範となりました。彼は主の言葉に従い、行く先も知らず、自分の親族と故郷を捨てて、果てしない約束の地を探す旅に出ました。70歳の時でした。果たして私たちに、70歳にして行き先もわからない旅に出ることが出来るでしょうか。

 ペトロもまた試みに合格しました。「先生、お言葉ですから、網をおろしてみましょう。」それは、人間的な判断によってではなく、イエス様がペトロにそうするように命じたから、その言葉に従っての言葉でした。ペトロは神に全てを委ねることのできる、信頼に足る人物であったからこそ、ほかの弟子たちの模範となるべく試される必要があったのだと思います。彼は網をおろしました。そしてその結果は、とてつもない豊漁でありました。

 この出来事は、素朴な正直者であった彼に、大変な衝撃を与えました。神の力の現れを目の当たりにした途端、彼は自分の罪深さに気づかされたのです。

 試みにあって居るときに、神がわたし達や教会に何を求めているのかを見抜くのは容易なことではありません。しかし神は「悪いたくらみも善に変える」(創50の20)事のできるお方です。
 試練のあとに、神は必ず祝福をもって報いて下さるという強い信仰が与えられるように祈りましょう。

 今日、東京のオミクロン株新規感染者の数は2万人を超えました。埼玉県も連日4000人越えです。まだまだ感染者の数は増えて行きそうです。大宮のカトリックみどり幼稚園は先週末、年長組に二人の感染者が出て、水曜日まで二つのクラスが学級閉鎖となり、濃厚接触者の先生3人がお休みする事態となりました。27日まで公開ミサを中止としたのは、司教様の適切な判断だったと思います。

 ミサに参加することのできない皆様を覚え、一人ミサを捧げながら、皆様のご家族の上に主の祝福をお祈り申し上げます。

カトリック春日部教会 司祭 鈴木三蛙