司祭の言葉 1/2

主の公現

 今日は主の公現の祝日です。本来は1月6日ですが、日本では1月2日から8日までの間の主日に祝われています。平日に祝うのは難しいからです。 「公現」はギリシア語で「エピファネイア」、「輝き出る」と言う意味です。イエスが神の子キリストとしてユダヤ人以外に現されたことを記念します。
 蛇足ですが、博士たちが贈り物をしたことから、フランスやイタリアまたメキシコなどでは、この日にクリスマスのプレゼントをするそうです。

 「占星術の学者」はギリシア語では「マゴスmagos」です。メディア(今のイラン)の一部族であり、祭司階級だった「マギ」に属する人の意味です。

 ご公現祭というのはユダヤの中に生まれたイエスという方が,ユダヤ人でない人にも開かれているということを公言する祝日です。教会は全ての人のために開かれているということを祝っているのです。初代教会にとって,これはとても大事なことでした。これまでのユダヤ教はユダヤ民族宗教の域をでず、ユダヤ人の宗教にとどまったままだったのです。
 キリスト教はその点イエス様のお言葉にある通り、宣教をその使命として、全世界に開かれています。

 さて、キリスト教は遠藤周作の小説に見られる通り、日本の土壌の中にしっかりと,植え付けられていくものであると思うのですが、多くの多国籍の信者さんが教会の中にいることを考えますと、普遍性・カトリックということを,いつも意識する必要があります。

 さいたま教区では日本人信徒の何倍もの外国人信徒がいます。  その人たちが日本の教会の中にどのように受け入れられていくのか,彼らを通して日本の教会が今からどのように変わっていくのか、そこを注目してゆくことが必要であると思います。

 神学生もメキシコ人、韓国人、ベトナム人がいます。司祭達もブラジルに研修に行ったり、台湾に研修に行ったりしています。日本人に帰化して働いている司祭方もおります。
 これからの宣教は、このような現状を踏まえたものになってゆくはずです。

 新しいものをどのように受け入れていくのか,さらに日本の文化をどのように守っていくのか,考察すべき課題は沢山あります。
 川口教会では教会学校の子ども達はほとんどベトナム2世3世です。福音も毎日曜、ベトナム語タガログ語英語でも朗読されます。第4日曜には説教も、ベトナム語と日本語で行われています。この現実の前に,日本の教会はどういう路線をとっていけばいいのでしょうか。
と同時に,インターネットで代表されるように、地球規模化(グローバル化)の時代にあって、日本の社会そのものが大きく変動しています。その中にあって,私たちはどのようなメッセージを社会に送り、あるべき教会の姿をどのように模索していくのでしょうか。
 今多くの教会がホームページで、自分たちの教会を紹介し始めておりますし、それらを見て教会に来られる方も増えています。大きな変化だと思います。

 今日の福音書の中で「ヘロデは恐れた」と言われています。「彼は不安を抱いた」とも言われています。先が見えないときに人は不安になります。
 正月、テレビでは厄払いのために宮参りをするように呼びかけ、不安をあおっています。ダイレクトメールで厄年のお知らせまで送られてきます。普段は信仰を持っていないような人でもこの時期、人は特別な気持ちになるようです。
 信者さんの家庭でも厄年に当たる信者でないお婿さんが、初詣に行ったなど聞いています。

 イエスという幼子がどうして不安の原因になったのでしょう。成長して政治的に権力を持ってきたときのことを考えて不安になったのでしょうか。

 ヘロデの不安は,先が見えないことに自分の頭で考えて何とかして問題を解決しようと焦ったことにあります。
 先週読んだマリアのやり方と比較すると何かがはっきりします。「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて,思い巡らしていた。」と聖書は書いています。

 ヘロデは自分の頭だけで,不安を何とか取り除こうとし、結果的には幼子たちを殺してしまいました。 他方、マリアは神のことばに信頼してじっくり考えながら,神様がして下さるだろうと思うことに頭を下げます。

 公現祭にあたり,2つの点を心に止めたいと思います。


1 私たちが信じているキリスト教は,どんな文化にも適応してきました。ですから、社会の中に市民権を持つまで,私たちはキリスト教のあり方を考える必要があるのではないかということ。

2 私たちも今の社会や教会ということに不安を抱いていますが、マリア様のように心に思い巡らして信頼する心をもつことが大切だということ。

聖霊が私たちを導いてくださいますように。