司祭の言葉 7/17

年間第16主日 (ルカ10章38-42節)

 皆さんおはようございます。新型コロナウイルスの第7波がやってきたようですが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。まだまだ油断が出来ませんね。
 さて今日の福音はマリアとマルタ、皆さんよくご存じのお話、エルサレム途上のイエス様をマルタが家に招き入れて、もてなしをする場面です。

 いま日本のおもてなしは世界中で評判になっています。
 いつでしたか、とある番組で外国人から見た「おもてなしの心、日本」ランキングのようなものが放送されていました。そのトップの第3位は デパートのおもてなし、第2位は 旅館のおもてなし、そして、外国人が感じる日本のおもてなし、堂々の第1位は「駅のおもてなし」ということでした。とくに、電車が正確に時間通り到着することに非常に驚くといいます。

 この「もてなす」という言葉は、はギリシア語で「ディアコノーdiakono」といいます。この言葉は「仕える、奉仕する」とも訳される言葉で、教会の助祭職は、ディアコノスと言われています。その誕生は使徒言行録の6章にあり、教会の、引いてはイエス様と弟子たちの生き方の中心にあるものと言えます。ですから、イエス様はマルタのもてなしの行為を否定しているのではありません。

 もし、マルタの奉仕自体が問題でないとするならば、問題はどこにあるのでしょうか。
 「そばに近寄って」・・・と訳されているこの言葉に注目したいのですが、ギリシャ語のエピスターサという言葉には、不意を襲うという意味もあるのだそうです。不意にイエス様に近づくマルタ。せわしく立ち働いているうちに、マリアへの不満、イエス様への不満が沸き上がってきます。どうして私ばかり忙しくしなければならないのか・・   マリアに自分から「手伝うように」と一言いえば済むことなのに、不満はイエス様に向かっているのです。
 「手伝ってくれるようにおっしゃってください」・・・ マルタの側に手伝うということですので、マルタが中心となります。
 イエス様のためにもてなしをするはずなのが、イエス様に文句を言ってしまうところで、本末転倒のことが起こっています。

 いつのまにか「私に雑用ばかりさせて」・・・そのような気持ちになったのかもしれません。
 「この世に雑用という用はない。用を雑にしたときに雑用が生まれるのだ」・・・と、誰かが言っていました。
 マルタは大切なおもてなしの仕事をしていたのですが、多くの仕事を焦りながらしているうちに、もてなす相手を忘れ、自分が主になってしまったのです。

 イエス様がマルタの招きに応えたこの時は、エルサレムに行こうとしている旅の途中でした。十字架にかかるためにです。イエス様の緊張は極みに達していたことでしょう。
  イエス様には休みが必要でした。静かな時が必要だったのです。少しの間もご自分を放そうとしない群衆から離れて、静寂のオアシスを求めて立ち寄ったのでしょう。マリアはそれを感じ取り、イエス様の話に静かに耳を傾けていますが、自分中心に物事を考えてしまうマルタは、イエス様の思いを感じ取れずに、親切が過ぎてしまったと言えます。

 加えて、当時のユダヤ社会の常識としては、女性には聖書の学びや、礼拝のための義務もなく、男性に従属することだけが求められていました。マルタのように奉仕することが当たり前で、マリアのように家事もせずに、先生の話を聞くというのは例外であったのです。でもイエス様はこれまでの在り方ではなく、マリアの在り方を認め、「男も女も神の言葉を聞いていいのだ。そしてそれがもっとも大切なことなのだ」とおっしゃっておられるのではないでしょうか。

 「必要なことはただ一つだけである」この言葉はマルタにとっては、さまざまな思いから自分を解放してくれる王からの良い知らせ〈エヴァンゲリオン〉福音だったと思います。
 この言葉の裏には暗に、ごちそうは必要ではなく、お茶づけ一杯あれば十分なのだよ・・というイエス様の思いも感じ取れるのではないでしょうか。

 きょうの福音は、わたしたちがどんな思いに縛られているのか、わたしたちにほんとうに必要なことはなんなのか、と問いかけてきます。
 「必要なことはただ一つだけである」・・ 多くの事に想い煩う今のわたしたちにとっても福音となる言葉です。