司祭の言葉 5/8

復活節第4主日(ヨハネ10章27-30節)

 今日は良き牧者の主日で、世界召命祈願の日となっています。良い牧者キリストの後に続く若者たちの召命のために祈りましょう。

わたしの羊は私の声を聞き分ける・・・
 この「聞く」という言葉は、ヨハネ10章に何度も出てくる言葉です。
 3節「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。
 8節「わたしより前に来た者は皆、盗人(ぬすびと)であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった」。
 16節「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける」。

 8節のように、「聞く」には「聞き従う」の意味もあります。
思えば、私は母の言いつけに、聞き従わない子どもでした。
家の仕事はちっとも手伝わず、・・・特に水くみが私の日課でした・・・
学校から帰ると家には入らず、「ただいま」と言って縁側に鞄を放り出し、
日が暮れるまで遊んでいました。ですから、
しょっちゅう和裁の物差しで叩かれました。

「聞く」時には・・耳を傾け、それを実行に移す・・・そのことが求められます。
ミサの中では、毎回使徒書が読まれますが、
わたしたちはそれをどのように聞いているでしょうか。

たとえば「コリントの教会への手紙」が朗読されるときには、
私たち「春日部教会への手紙」として・・・
宛先を替えて聞かなければならないのです。

 もう一つの、今日の注意すべき言葉は、「知る」と言う言葉です。
ユダヤの民は「知る」と言う言葉を、知識としてではなく、体験として知る・・と言う意味で受け取っていました。

 これも日本語で「○○さんを知っていますか」というときの「知る」に似ています。その人のことを良く分かっていますか、その人と関わりがありますか・・という意味になりますから。

私は、一人のお酒の好きな人、Aさんを知っています。
彼は、はじめは相手の顔を見て、「おい、俺の話を本当にわかっているのか」・・等と
おとなしく話していますが、酔うに従って少しずつ、手が上がってきます。
彼が相手に指をさして物を言うときは、かなりに酩酊しているときです。
そしてその後は、必ずと言っていいほど、トイレに行って便器を抱えて、
そこで眠ってしまいます。いいお酒です。

 相手を解ると言うことは、長いつきあいの中で、普段は見せないような相手の性格や癖も知っていると言うことです。

聖書の中での「知る」も、いつも「かかわりをとおして知ること」を意味しています。

 今でもそこに在るのだろうと思うのですが、土浦市の真鍋小学校の校庭の真ん中には5本の桜が植えてありました。とてもきれいな見事な桜でした。明治40年に植えられた桜ですので、もう115年になります。校庭の隅に植えられた桜でしたが、子どもが増えてくると学校は拡張され、校庭も広げられ隅にあったサクラは校庭の真ん中に来ました。
ここに30年以上前から続く伝統があるそうです。6年生が新入生を負ぶってサクラの周りを回ると言うことです。

 上級生の背中で見た桜は忘れられないと言うことでした。

 「わたしは彼らを知っており、彼らは私に従う」とイエス様はおっしゃいます。

イエス様がわたしたちを知っていてくださるということは、何よりも大きな恵みです。
そのことに感謝しながら、今日のみ言葉を黙想いたしましょう。