司祭の言葉 3/20

四旬節第3主日 (ルカ13章1‐9節)

 ロシアのウクライナへの侵略はいまだ続いています。もう三週間になり避難を強いられた人々は300万人を超えています。国際社会は、まだこの戦争を終わらせることができないでいます。 幼稚園の園児も、このニュースに心を痛めています。
 昔も今も権力者が力づくで人々をしたがわせようとしますが、人々は自由を求めて戦うことをやめません。話し合いによる解決が待たれます。

 「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」とはどのような事件なのでしょうか。残念ながら資料が乏しく正確にはわからないのだそうです。
 でも、バークレーと言う神学者は事件について次のように書いています。

 「ちょうどこの頃、ピラトは深刻な問題に巻き込まれていた。エルサレムにはもっと水の供給を増大する必要があると彼には思われた。確かにそれは的確な判断だった。彼は水道の建設を提唱し、その費用を賄うために、神殿の金を用いることを要求した。それは称賛されるべき企てで、そのような支出は極めて正当なものであった。
 ところが、そのようなことに神殿の金を使うという考えがそもそも間違っているとしてユダヤ人たちは武装ほう起した。反徒が集合するとピラトは兵士たちに、密かに、そのなかに潜入するように指令した。兵士たちは戦衣の上に外套をかぶって変装していた。彼らは剣ではなく棒を持つように指令されていた。合図により反徒にとびかかり、彼らを逃散させるという手はずになっていた。だが実際になってみると、兵士たちは反徒に対して指令よりもはるかにひどい暴虐を加えたので、相当数の人がそこで殺された。おそらくそこにはガリラヤ人も含まれていたのであろう。」

 シロアムの塔の場合は全く偶然の、不慮の事故と思われますが、これについてもバークレーは、「この説の言外には、この人々がピラトの忌まわしい水道工事中に災難にあった‥ということが示唆されているように思われる」と書いています。

 古代エルサレムには町に水を供給するための地下水道があり、その出口にシロアムの池がありました。(ヨハネ9章7節) その塔が倒れて大勢の人が死んだという大事故があったようです。 忌まわしい工事に手を貸したから罰を受けたというのでしょうか。

 当時は「人の不幸はその人の罪の結果だ」という考えがありました。事件や事故の被害者を見て、「あの人たちが何か罪を犯していたからだ」と決めつけたのです。

 イエス様は、そういう考えを否定します。
 「ほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」
それは、悲惨な出来事を自分たちへの呼びかけ、警告として受け取るように、ということです。
 さまざまな出来事はわたしたちの回心のチャンスなのです。
3.11 東日本大震災から丸11年が経ちました。
この間わたしたちは何をしてきたでしょうか。

災害を最小限の被害に食い止めるための工夫
 被災地の支援 被災者の受け入れ 被災地の人たちの作ったものをできるだけ買ってあげること いろいろなさったと思いますが、・・・今でもその支援は続いているのでしょうか。

 ウクライナ侵攻は、権力者による全くの人災ですから同列に置くことはできませんが、それでも、災難にあっている彼らのために何かしていますか?と、問われていると思います。
 そして6節からは実のならないいちじくの木のたとえ話です。
 このたとえ話の「主人」を「父である神」、「園丁」を「イエス様」と考えるなら、イエス様のとりなしに甘えて、いつまでも実を結ばない私たちを戒めていると考えるべきではないでしょうか。

 第1朗読では、神様は「わたしはあるというものだ」としめされています。神の名ヤーウエはこの「ある」という意味の込められた名前であるといわれています。

 そこには二つの意味があります。神さまは何者にもよらない、存在そのものだという意味と、いつもわたしたちと共にあるといういみです。
 そしてわたしたちと共にあることを示すために、神の第二のペルソナはマリアのうちに宿り、この世においでになりました。  主イエス様を遣わされたのです。

 しかしそのことに甘えて回心を遅らせてはいけないのです。

 今日のたとえ話のポイントは、「来年まで待つ」という言葉です。

 神は忍耐してくださるけれども、今が回心の最後のチャンスだと考えなければならない・・ということが強調されています。