司祭の言葉 4/28

復活節第5主日 ヨハネ15:1-8

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」。

ヨハネによる福音は、主イエスの「最後の晩餐」での十二弟子への説教と祈りを、五章にもわたって、実にていねいに伝えてくれています。今日の福音はその一節で、その内容からとくに、主の「ぶどうの木のたとえ」とも呼ばれてきました。

聖地を旅行された方は、お気付きと思います。ぶどうは乾燥した地で生育し得る数少ない植物です。しかもそのような地において、とりわけ豊かに水分を蓄える事のできるぶどうは、日本でいう果物と言うよりも、乾燥した地の人々にとっていのちの水ともいい得る、まことに貴重な植物です。

主イエスは、わたしたちに「わたしはぶどうの木」と、仰ってくださいました。主のおことばには、水を求めて得られないような荒地においても、主はわたしたちに豊かにいのちの水を与えることがおできになる、との主のおこころを強く感じます。

「わたしはぶどうの木」と言われた主イエスは、さらにわたしたちに、「あなたがたはその枝である」と仰せでした。「ぶどうの木」である主に、「枝」として繋がらせていただかなければ生きることができないわたしたちであることを、主は良くご存知です。わたしたちは誰一人、いのちの水なしに生きることはできないからです。

ところで、主イエスは続けて、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と、仰せになっておられました。

一つのことに気付きます。主イエスは、わたしたちをぶどうの木の「枝」であると仰っておられるのであって、「実」であると仰ってはおられません!

主イエスはわたしたちを、ぶどうの「実」ではなく、主のぶどうの木の「枝」としてくださいました。「枝」であるわたしたちが、主なるぶどうの木からの豊かないのちの水を受けて生きるのみならず、「豊かに実を結ぶためであると、主は仰せです。

「ぶどうの実」は、わたしたちという「枝」を通して、「ぶどうの木」である主イエスからのいのちの水を豊かに蓄えさせていただきます。そのわたしたちという「枝」を通して多くの「実」が豊かに受けるのは、主のいのちです。

ところで、わたしたちに、「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」と仰せになられた主イエスは、天の父なる神については、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と、仰っておられました。

その上で、主イエスは続けて、父なる神ご自身が農夫として、ぶどうの木の枝を手入れしてくださる。実を結ばない枝は取り除かれ、実を結ぶ枝は、さらに豊かに実を結ぶようにしてくださる、と仰せになられました。わたしたちは、どちらでしょうか。

実は、主イエスは、決定的に大切なことを、わたしたちに仰せになっておられました。「わたしの話したことばによって、あなたがたは既に聖(きよ)くなっている。」

「既に」です過去の、あるいは今後のわたしたちの様子を見て、ではありません。主イエスは、わたしたちに与えられたみことばによって、「既に」わたしたちを聖くしてくださった。父なる神は、みことばなる主を与えてわたしたちを、「既に」父なる神のもの・豊かな「実」を結び得る枝としてくださっておられる、と主は仰せです。

「わたしの話したことばによって、あなたがたは既に聖(きよ)くなっている。」わたしたちを聖くすることがおできになるのは、聖霊のみです。つまり、主イエスは、ご自身であるみことばをわたしたちにお与えくださることによって、「既に」わたしたちに、聖霊をお与えになっておられる、と仰っておられるのです。

事柄は明確です。主イエスがわたしたちにみことばをくださる、それはみことばなる主ご自身をくださることです。みことばなる主は、聖霊なる主ご自身です。

主イエスの「ぶどうの木のたとえ」は、最後の晩餐での主の説教の一節です。そこでの主の約束は、「最後の晩餐」を経て十字架で裂かれ、わたしたちに与えられる主ご自身、つまりご聖体において、わたしたちに聖霊をくださる、ということです。

主イエスのみことばとご聖体において聖霊をいただいたわたしたちは、聖霊によって既に聖くされている、と主は仰せです。それはわたしたち、さらにわたしたちを通して多くの人が、主から同じいのちの水をいただいて豊かに生きるためです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 4/21

復活節第4主日 ヨハネ10:11-18

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」

これは、主イエスのおことばです。ここで、「良い羊飼い」とは、誰のために「良い」のでしょうか。もちろん、わたしたち「羊のために」です。わたしたちを生かすために、ご自身を犠牲になさるほどに、わたしたちのために「良い」ということです。そうであれば、「良い羊飼い」とは主だけです。ただ主だけが、このみことばの通りに、「良い羊飼い」として、事実、わたしたち「羊のために命を捨て」てくださったからです。

ここで思い出すことがあります。主イエスは、宣教のご生涯の始めに、「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」(マタイ9:35)と、マタイによる福音は伝えていました。ただし、その時、行き廻られた町や村で、主がご覧になったわたしたちの現実とは、どのようなものだったのでしょうか。

マタイによる福音は続けていました。「主は、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(マタイ9:35,36) フランシスコ会訳『聖書』では、ここを次のように訳しています。「イエスは、群衆が牧者のいない羊の群れのように疲れ果て、倒れているのを見て、憐れに思われた。」

先に、主イエスの話されたユダヤの言葉でも、また福音が伝えられた新約のギリシャ語でも、「復活する」とは、元来、倒れている人を抱き起こす、さらには、傷ついた人を介抱する、と言う時に日常的に使われる言葉(他動詞)でもあると申しました。

そうであれば、「牧者のいない羊の群れ」こそ、主イエスのみ前に「疲れ果て、倒れて」いたわたしたちの姿、ご復活の主に見いだされ、抱き起こされ、介抱されることをひたすらに待っているわたしたち自身の現実の姿ではないでしょうか。

「わたしは良い羊飼いである。」主イエスは、今日の福音で、このおことばを二度繰り返された後、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」と、仰せになっておられました。この時、主が「羊であるわたしたちを知って」おり、羊も「神である羊飼いを知る」とは、どういうことなのでしょうか。主は、仰せです。

「それは父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。」

御父なる神と御子キリストが互いを知る。それは、御父と御子が一つであるということです。そうであれば、御父が御子を知っておられるように、羊飼いである主イエスが、わたしたち羊を知ってくださる。それは、父なる神と御子が一つであるように、主は、ご自身とわたしたちとを一つにしてくださる、ということです。

驚くべきことに、「牧者のいない羊」であるようなわたしたちを、主イエスはご自身と一つとしてくださる。ご自身そのものとさえしてくださる。自らの罪ゆえに主のみ許から迷い出たわたしたちの負うべき十字架、つまりわたしたちの悩み、苦しみ、悲しみ、罪の一切を、主ご自身がご自分に引き受けてくださる、と言われるのです。

「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」ここに神の愛があります。御子にわたしたちを固く結びつけご自身と一つにしてくださる父なる神の愛。

しかしこの父なる神の愛は、わたしたちの罪の赦しために御子キリストを十字架につけ、さらに御子を復活させてわたしたちに命を与える聖霊をくださることにより成就する神の愛です。主は仰せでした。「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。」

かつては「牧者のいない羊」のようであったわたしたち。それは、自らの罪ゆえに牧者を失っていたわたしたちの現実の姿、唯一人の牧者なる神から罪によって離れてしまっていたわたしたちの姿でした。そのような愚かで惨めなわたしたちと、敢えてご自身を一つにしてくださるまで、わたしたちを愛し抜いてくださる主イエス。

御子キリストによる、この神の愛の内に、わたしたちの罪を贖う主イエスの十字架が堅く立てられています。この神の愛の内に、罪贖われたわたしたちに永遠の命を与え、さらにそのわたしたちを神への捧げものとしてくださるために、聖霊を注いでわたしたちを聖くしてくださるご復活の主ご自身がお立ちになっておられます。

羊飼いなる主イエスが、羊であるわたしたちを知り、ご自身と一つに結び合わせてくださいます。主は、十字架とご復活によるご自身のご奉献に、わたしたち自身の奉献を一つに結び合わせてくださいます。ごミサこそ、まさにその時です。

「わたしは良い羊飼いである」と主イエスは仰せです。 

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

司祭の言葉 4/14

復活節第3主日 ルカ24:35-48

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」(ルカ24:32)

「そのとき、エルサレムに戻った二人の弟子は、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を(ペトロたち十一人の弟子たちに)話した」(ルカ24:35)と、今日のルカによる福音は、語り始めていました。

ところで、遡って、主イエスの十字架の死から三日目のことでした(ルカ24:13-34)。この二人の弟子たちは、エルサレムを離れてエマオと言う村に向かっていました。彼らは、主のことを道々話していました。すでにその日の朝早く、十字架の主のおからだが納められた墓を訪ねた婦人たちから、「主は生きておられる」と聞かされていました。しかし、二人はそのことを信じることができませんでした。

エルサレムから離れて行くこの二人に、いつの間にかご復活の主イエスが寄り添い、ともに歩き始めてくださっていました。しかし彼らは、この方が主ご自身であることに気づきませんでした。「二人の目は遮られていた」と、聖書は伝えています。

何が、ご復活の主イエスに対して、彼らの目を遮っていたのでしょうか。それは、彼らの人間的でこの世的な主への期待、したがって主の十字架の死による失望と落胆。さらには、その後の主のご復活を疑う疑いではなかったでしょうか。

実は、そのような二人には最初から、主イエスの真実が目に見えていなかったのかも知れません。それは、彼らが主に呼ばれたその時から、主の十字架の死、さらには主のご復活の後の今この時に至るまで、神が一時も休むことなく、主イエスにおいて彼らになさってくださっておられた恵みの事実です。

しかし、この神の恵みの事実に、二人の目が開かれる時が来ます。

二人、否、今や三人がともに歩き続けて夕方になりました。二人は、もう一人の方を夕べの食卓に招きました。その方は彼らとともに家に入られ、一緒に食卓に着かれました。そして、その方が二人に「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」まさにその時、「二人の目が開け、イエスだと分かった」(24:30,31)。

「主は生きておられる。」

十字架を控えての最後の晩餐の時と同じ主イエスが、しかし、まぎれもなく、今やご復活の主が、その食卓で、二人のためにパンを裂いておられる、彼らのために、ご自分の御からだを裂き、ご自分の御血を注いでくださっておられる。 

実は、ご復活の主イエス・キリストに対して「目が遮られていた」のは、この二人の弟子だけではありませんでした。エルサレムに留まっていたペトロたち他の弟子たちも、同様でした。彼らは、この二人から主のご復活の証言を聞かされていたにもかかわらず、ご復活の主がペトロたちにご自身を現わされた時、主から「なぜうろたえているのか。どうして心に疑いを起すのか」と言われなければなりませでした。

しかし、ご復活の主イエスは、ちょうど、かつてエルサレムを離れてエマオに向かった二人になさったように、ペトロたち十一人の弟子たちにも、主ご自身について、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活するとの聖書の言葉を悟らせるために、彼らの心の目を開いて」くださいました。その上で、主は、「あなたがたはこれらのことの証人となる」と、ペトロたちに約束されました。

後にペトロたちは確かに、主イエスのお約束通り、主の十字架とご復活の証人とされました。しかしそれは今日の福音のように、ご復活の主ご自身が、彼らの心から疑いが無くなるまで、くりかえし彼らを訪ねてくださったことによって、でした。

わたしたちも、同じではないでしょうか。わたしたちの「遮られた心の目」が、ご復活の主イエスにはっきりと開かれるその時まで、主はうむことなく、休むことなくわたしたちを訪ね、わたしたちのためにご自身について聖書を悟らせ、さらにごミサで、主とのこの食卓でご自身の御からだを裂き、御血を注ぎ出してくださいます。

「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」

わたしたちも同様です。ご復活の主イエス・キリストは、すでにわたしたちとともに歩いてくださっておられた。この事実に気づかせていただく。それがごミサです。

ご復活の主が、皆さんとともに。 父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

司祭の言葉 4/7

復活節第2主日 (神のいつくしみの主日) ヨハネ20:19-31

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「わたしの主、わたしの神よ。」

主イエスの十二使徒の一人トマスが、ご復活の主日から八日目の当に今日。彼を訪れてくださったご復活の主イエス・キリストご自身に、深い懺悔、そして畏れと感謝をもって告白した、彼の信仰のことばです。彼のこの信仰のことばは、今に至るまで、すべての時代、全世界のキリスト者の信仰告白のことばであり続けています。

聖トマスは、「わが主よ、わが神よ」との彼の信仰のことばとともに、二千年の教会の歴史を通して記憶されてきました。しかし、トマスは最初から信仰者の模範というべき人であったという訳ではなかったようです。最初はむしろ逆であったともいえます。トマスは、弟子たちの間で、「ディディモ」と呼ばれていました。これには「双子」に加えて、「疑い深い」と言う意味もあるのです。それには、理由があります。

わたしたちは、先の主日を、主イエス・キリストの復活の主日としてお祝いいたしました。主は十字架におつきになられる前に、弟子たちに三度、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、殺され、三日目に復活する」と仰せになっておられました。このおことば通り、主は十字架に死に、そして三日目に復活されました。

その復活の主日後、昨日までの一週間、わたしたちは毎日の礼拝で、ご復活の主イエスが、最初にマグダラのマリアに、続けて十字架の許にまで主に従い続けた婦人たちに、さらにペトロたち主の弟子たち一人ひとりにお会いくださった次第を、喜びと感動、そして畏れをもって、福音からていねいにお聞きし続けて参りました。

ただし、ご復活の主イエス・キリストは、今日までトマスにだけはお会いなっておられませんでした。なぜでしょうか。今日の福音が伝えているように、ご復活の日の夕方、主が他の弟子たちをお訪ねになられた時、トマスは、そして彼一人だけが、彼らと一緒にいなかったからです。トマスは、主イエスのご復活を疑っていたからです。

ペトロがトマスに、「わたしたちは、週の始めの日に、確かに主に、ご復活の主にお目に掛かった」と熱く語った時も、トマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」とさえ応えていました。

さて、ご復活の日から丁度一週間後の今日、ペトロ始め主イエスの弟子たちは再び集まりました。トマスも今日は一緒でした。ご復活の主日と同様に、主は八日目の今日再び、弟子たちを訪ねてくださいました。ご復活の主イエスは、今日はとくにトマスにお会いくださるために来てくださいました。主はトマスに仰せになりました。

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

ご復活の主イエス・キリストのこのおことばに応えて、トマスの心の底から絞り出されるようにして語りだされた言葉こそ「わたしの主、わたしの神よ」でした。疑い深いトマスでした。主のご復活の約束を、さらにその事実をも疑っていました。しかし、トマスは、最早これ以上疑い続ける訳にはゆきませんご復活の主イエスご自身が、今、弟子たちのただ中に、そしてトマス自身の目の前に立っておられるからです。

その時、トマスは主イエスのみ前に悔い崩折れる他無かったと思います。今日まで疑いの内に自らを閉ざしていたトマス、主の十字架の下に蹲り続けていたトマスを、主は大切に抱きしめ、抱き起こしてくださいました。十字架の釘跡の残る主の両の御腕で。槍で刺し貫かれた傷跡の残る主のみ胸の内に。それが、主のご復活です。

「ディディモ」と呼ばれたトマスのように、主イエスを「疑う」こと、神の遣わされた主を信じ切ることができないことを、聖書では罪と言います。この罪の帰結は死以外にはありません。神を疑い続ける限り、人は真実に生きることはできないからです。神を疑う者は、結局は自分自身も疑い、誰をも信じることはできず、したがって、誰とも信頼しあい、愛しあい、望みをもって生きることはできないからです。すなわち、神を疑う者は、神と人とに対して死んだ者である他ないのです。

しかし疑うトマスを、主イエスはそのままにしてはおかれません。ご復活の主イエス・キリストは、彼を、神と人との前に決して死んだままにしてはおかれません。トマスだけではありません。実は、二度もご復活の主のご訪問を受けながら、なお主のご復活を疑ったペトロ始め主の弟子たちを、ご復活の主イエスは忍耐強く、「三度」訪ねてくださいました。わたしたちすべてが、最早二度と、主のご復活を疑い得なくされるまで、十字架の許に蹲っていたわたしたちすべてが、主に抱き起こされ、主とともに主のご復活のいのちに歩み始める者とされるまで、主は忍耐強くわたしたちを訪ね続けてくださいます。それが今日の福音です。

「わたしの主、わたしの神よ」。 ご復活の主が、皆さんとともに。 アーメン。

司祭の言葉 3/31 日中

復活の主日・日中のミサ(B年・2024年3月31日)ヨハネ20:1-9

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエス・キリストのご復活の日の朝早く、マグダラのマリアは、主のおからだが納められた墓を訪ねました。しかし、その墓の内に、主を見つけることは出来ませんでした。ヨハネによる福音は、そのように伝えています。

主イエスにもう一度お会いしたい。主への切ないほどのマグダラのマリアのこの一途な思い。しかし、訪ねた主の墓が空であった時のマリアの驚きと落胆。それは、皆さんもよくお分かりになると思います。

しかし、「その時」と、ヨハネによる福音は、続けて、マグダラのマリアとご復活の主イエスご自身との驚くべき出会いを伝えます。

マリアが「空の墓の外に立って泣いていた」「その時」、彼女は、「マリア」と彼女の名を呼ぶ声を聞いたのです。忘れもしないその声に、マリアは即座に、彼女の言葉で主に、「ラボニ」と、お応えしました。「わたしの先生」と言う意味です。

「わたしの先生」。この短い言葉にマリアの逸る心を感じます。ふたたび見(まみ)えることができたご復活の主イエス・キリスト。主に縋りつきたい。しかしこの時、主はマリアに、「わたしに縋りつくのはよしなさい」と仰せになりました。なぜでしょうか。

マグダラのマリアだけでは無いと思います。実は、気付かないままにわたしたち一人ひとりも、「わたしの」思いの中に、「わたしの」小さな愛の中に、「わたしの」願いの中に、主イエスを求め続けて来たのではなかったでしょうか。

しかしご復活の主イエスは、逆にわたしたちが、「主の」内に、「主の」深い願いの内に、「主の」大きな愛の内にわたしたち自身を見つけることを求めておられます。

主イエスは、エルサレムに最後に入城された直後、神殿での説教で人々に、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ12:32)と、仰せになっておられました。

このみことばで主イエスは、ご自身の十字架に続くご復活が、聖霊による主ご自身の新しいいのちの始めであるとともに、主の十字架によって主に結び合わされたわたしたち自身の復活のいのちの始めでもあることを、語り示しておられます。そしてそのことを、復活の主イエス・キリストの使徒パウロは次のように語っています。

「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。・・・あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロサイ3:1-4)

ご復活の主イエス・キリストが、マグダラのマリアに、「わたしに縋りつくのはよしなさい」と仰せになられた時、主は、続けて次のように念を押しておられました。「わたしは、まだ父のもとへ上っていないのだから。」(ヨハネ20:17)

ご復活の主イエスは、決してご自分だけが「天の父のもとに上っていないのだから」と仰っておられるのではないと思います。ご復活の主のいのちとともに、マリアの命も、まだ天の父のもとに高く上げられていないのだから、ということです。

しかし、ご復活の主イエスが天の父のもとに高く上られる時、必ずやマリアの命も主とともに、主によって天に高く抱き上げられ、主のご復活のいのちと一つとされます。ただしそれは、マリアが、ご復活の主に「縋りつく」ことによってではありません。ご復活の主キリストが、マリアを「抱き起こし、抱き上げる」ことによってです。

実は、主イエスがマリアと話された『聖書』の言葉では、「復活する」とは、死んだ者、倒れた者が、一人で立ち上がると言う意味の自動詞ではありません。(倒れた者、死んだ者を)抱き起こし、抱き上げる」という意味の他動詞です。主は復活された。それは、倒れ死んでいた主イエスが生き返ったと言うだけではありません。むしろ、倒れ死んでいたのはマリアの方です。そのマリアを、あるいは倒れているわたしたち一人ひとりを、主が抱き起こし、抱き上げてくださる。それが主の「復活」です。

わたしたちのために十字架につかれた主イエス・キリストは、主の十字架のもとに、なお蹲(うずくま)ってしまうわたしたちのために復活してくださるのです。主のみ前に倒れているわたしたちを、死に打ち勝った主の力強い御腕で抱き起こし、さらに高く抱き上げてくださるために。十字架の傷跡のある主の御腕で。

ご復活の主イエス・キリストが、皆さんとともに。  アーメン。

司祭の言葉 3/31

復活の聖なる徹夜祭(B年・2024年3月31日)マルコ16:1-7

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエス・キリストのご復活の日の朝早く、マグダラのマリアたち三人の女性たちは、十字架の後に主のおからだが収められた墓を訪ねました。

そのマリアたちに、神は、最初にみ使いによって声をかけてくださいました。それが今日の福音です。実は、福音書は、さらに、ご復活の主イエスご自身とマグダラのマリアとの感動的な出会いの物語を語り継いで行きます。

ところで、最初にみ使いによってマグダラのマリアたちに出会われた神は、彼女たちに「驚くことはない」、文字通りには「恐れるな」と仰せになっておられました。なぜでしょうか。なぜ、神は、この時、マリアたちに、「恐れるな」と仰せになられたのでしょうか。皆さんは、三人の女性たちとともに、神からの「恐れるな」とのおことばを、どのような思いでお聞きになられたでしょうか。

この時、マリアたちは一体何を「恐れた」のでしょうか。主イエスが納められたはずの墓が、空だったことでしょうか。聖書はそのようには伝えていません。そうではなく、み使いによって、神が、彼女たちに会ってくださった、そのことを、マリアたちは「恐れた」のです。マリアたちは、神を「恐れた」のです。だからこそ、マリアたちに、神は「恐れるな」と仰ってくださったのです。

神に「恐れるな」と仰っていただく。わたしはこの主のみことばに、愕然といたしました。なぜなら、神のこのみことばの前に、わたしは自分自身を問い直さざるを得ないからです。果たして、わたしは、神に「恐れるな」と言っていただかなければならないほどに、真実に神を恐れて生きてきたかどうか。さらに、わたしは、今、この時、果たして、神を、そして神のみを、真に恐れて生きているといえるかどうか。

第二次大戦中、当時ドイツの大学で教えていたスイス人牧師カール・バルトが、ドイツの教会の人々に、クリスマスの説教をいたしました。その題は『恐れるな』。説教の題は、主イエスの誕生を予告する天使ガブリエルが、主の母となられるマリアさまに告げた「恐れるな」ということばから取られました。これはドイツのナチの軍靴の響きが、すでにドイツ内外に不気味な影を落とし始めている中で、恐怖と不安に心が動揺している人々に向けて語られた説教でした。

彼は教会に集った人々に、わたしたちは、今、一体何を恐れているのか、と問い掛けます。ナチの軍隊か。もちろん、そうであるに違いない。しかし、と彼はさらに問いかけます。わたしたちは、み使いに「恐れるな」と言っていただかなければならないほどに、果たして、神を、神のみを恐れているだろうか、と。彼は、この説教を次の言葉で結んでいます。「もし、わたしたちが、真の神を、神のみを恐れることがないならば、その結果、わたしたちは、真の神以外の一切のものを、恐れることになる。」

これは他人ごとでありません。先の東日本大震以来の自然災害、さらに未だ終息に至らない新型コロナ感染症に加えて、日常の些細なことでも、一端事が起これば、自分の身の危険や、さらには自らの死を恐れて心が動転するだけのわたしです。

もし、神から「恐れるな」とのみことばを聞かせていただくことがなければ、「神を恐れる」ことに、思いが及ばなかったようなわたしでした。その結果、「神を恐れる」という人として最も大切なことを忘れ、神を信じると言いながらも、取りとめのない不安と神以外のあらゆるものに対する恐れの中で、わたしは一生を空しく過ごしてしまったかも知れません。

こころから愛していた主イエスの十字架の死。頼りにし切っていたに違いない主の、まったく思いがけない死。主イエスのご復活の朝早く、神から「恐れるな」とのみことばを聞かせていただくその時まで、マグダラのマリアたちの心を占めていたのも、主を失った彼女たちのこれからの生活への不安、さらには、主を失った彼女たちを取り巻くすべてのものに対する恐れでは無かったでしょうか。言い換えれば、真の神以外のすべてのものへの恐れでは無かったでしょうか。

しかし、もうその必要はない。ご復活の日の朝、神はマリアに語られたのです。「恐れるな。」そして時を措かず、ご復活の主イエスご自身が彼女にお会いくださる。

神を、神のみを「恐れる」者から、神は、神以外の一切のものへの恐れを取り除いてくださいます。実はこの神こそ、主イエスにおいて既に親しくわたしたちにお会いくださっておられた神。十字架に至るまで、わたしたちを愛し抜いてくださった方です。この方が、今、ふたたびわたしたちにお会いくださる。それが主のご復活です。

「マリア、恐れることはない」。マリアだけではありません。これは、皆さんお一人おひとりへの、ご復活の主イエス・キリストご自身からの愛と慰めのおことばです。

「恐れることはない」。 ご復活の主が、皆さんとともに。 アーメン。

司祭の言葉 3/29

聖金曜日・主の受難(B年・2024年3月29日)ヨハネ18:1-19:42

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

昨晩のごミサで、わたしたちは主イエスと十二弟子たちとの「過越の食卓」「最後の晩餐」を記念いたしました。続く今日、わたしたちは、十字架におつきになられた主のもとに集まり、「信仰の神秘」を記念します。しかしなぜ、信仰は、神秘すなわち秘跡」なのか。信仰とはわたしたちの心の問題ではないのでしょうか。

ところで、「最後の晩餐」の時のことです。主イエスはペトロに、「わたしの行く所に、あなたは今ついてくることはできないが、後でついてくることになる」と仰せになられました。ペテロは「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためには命を捨てます」と、主にお応えしました。その時のペトロの気持ちに偽りはなかったと思います。しかし、このペテロに主は、「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と、冷淡とも言えるおことばを返しておられました。

わたしたちは神を信じるという時、何を思うでしょうか。聖書において、「神を信じる」とは、極めて重い言葉です。それは、神に自分自身を委ね切ってしまうこと、さらには、神に自分自身を一切明け渡してしまうこと、捧げつくしてしまうことです。すなわち、「信仰」とは、わたしたち自身を神に「奉献」することです。つまり、聖書において「神を信じる」とは、近代人が考えるように、神の存在を知的に承認するというようなわたしたちの心の問題などではなくわたしたちの身を神に捧げること、です。

ペテロは主イエスに、「主よ、あなたのために命を捨てます」と申し上げました。それが、「主よ、あなたを信じます」ということなのです。事実、ペテロは後に主のために命を捨てます。ペテロの主への「信仰」は、彼の心の内の確信ではなく、彼の殉教によって成就します。ただし、それは主のご復活の後、聖霊の導きによってです。

しかし、「主の受難日」の今日、わたしたちが目撃するペテロの姿はどうでしょうか。今日に限って言えば、ペテロは、自分を主イエスに委ね切って、主とともに十字架につくことはできませんでした。そのように主を信じきることはできませんでした。しかし、そこには命はありません。主を離れて、命はないからです。主イエスが、主とともに十字架につけられた一人の人に「神の国」を約束されたように、主とともに十字架につけば、じつに、そこに永遠のいのちがある、神の国があるのです。

しかし、受難日の今日、わたしたちが目撃した事実とは、驚くべき事に、ペテロではなく、じつに主イエスの方が、ペテロのためにご自身のいのちを捨てられた、そのように主がペテロを信じた、という事実ではなかったでしょうか。

主イエスを信じきれず、主に自分の命を差し出し切れない今日のペテロ。そのペトロに対して、主の方がペテロにご自身のいのちを捧げ切ってくださった。そのようにして、主の方が、ペテロを「信じ切って」くださったのです。信仰とは、奉献であると申しました。実に、わたしたちが自らを主に捧げきれない中で、先に主イエスの方がわたしたちにご自身を捧げきってくださったのです。わたしたちが主を信じる前に、主がわたしたちを信じてくださったのです。それが、主の十字架です。

「主の受難日」の今日、これが、福音が伝える主イエスとペトロの間に起こった事実です。「信仰の神秘」。福音において明らかにされた「信仰」とは、「神秘つまり秘跡」・神の自己奉献のみわざとして神がわたしたちに成就してくださった神の事実です。今日、主の十字架のもとで記念するのは、この驚くべき神の恵みの事実です。

「信仰の神秘」。「神秘すなわち秘跡」。それは、わたしたちの思いを超えた神のみ業です。それは、理屈ではありません。今日のペトロのように、主イエスを信じ切れずに疑い、従って主のために命を差し出しきれないわたしたち。主のために死に切れないわたしたち。そのわたしたちのために、主の方が十字架の上でご自身の御血の最後の一滴に至るまで注ぎ尽くしてくださった。そのようにしてまで主はご自身を捧げつくしてくださった。十字架の死に至るまで。それが、信仰の神秘です。驚くべきことです。しかし、これは神が、事実なさってくださったことです。また、ご聖体の秘跡として、ごミサの度ごとに神がわたしたちになさってくださる事実です。

「信仰の神秘」「秘跡である信仰」とは、わたしたちが頭で神の存在を確信すると言うような事でも、心の内に主の十字架を偲ぶというようなことでもありません。信仰とは、わたしたちの力を越えた主イエスの事実です。信仰とは、救い主キリストが十字架において、わたしたちにご自身を捧げてくださった恵みの事実です。

この主イエスに、わたしたちは感謝を以ってわたしたち自身を捧げさせていただく。これ以外に、主にお応えする道はありません。それがわたしたちの「信仰」、神へのわたしたち自身の「奉献」です。主イエスの方がわたしたちに先立ち、わたしたちにご自身を、ご自身の御からだと御血を、捧げ尽くしてくださったからです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 3/28

主の晩餐の夕べのミサ(B年・2024年3月28日)ヨハネ13:1-15

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

聖木曜日。主の晩餐の夕べのミサを祝う度に、かつて、わたしが英国で、ユダヤ人の友人の家庭の春の「過越の祭」の食卓に招かれた時のことを思い出します。

ユダヤの人々は、古い仕来りのままにユダヤ暦ニサンの月の14日の過越の晩、家族ごとに食卓に集います。家長のブドウの盃による祝福によって過越の祭儀は開始され、詩編の朗詠に続き、今日お聞きしたのと同じ出エジプトの物語が朗読されます。続いて、家長はパンを取り、感謝の祈りを捧げた後、パンを裂き、一同に配ります。その後、食事の終わりに、再度、家長からのブドウの杯による祝福を以て、過越の祭の食卓は閉じられます。ルカによる福音が正確に伝えている通りの順序です。

ユダヤ人の友の家庭で過越の祭の食卓に加えていただき、福音書の伝える主イエスと十二人の弟子たちの過越の祭の食卓、「最後の晩餐」の様子を心に思い浮かべていた時、ふと、わたしたちが囲んでいる家庭の過越の食卓の、いちばん大切と思われる席が空席であることに気付きました。ユダヤ人の友人によれば、それは、待ち望んでいるメシア・キリストのために、大切に空けてある席だとのことでした。

それを聞いて、ああ、ここには主イエス・キリストがいらっしゃらないのだなと、それまでの感動に代えて、突然一切が虚ろにさえ感じられた事を覚えています。

しかし、今、わたしたちが祝っているこのごミサは、違います。わたしたちの過越の食卓の主は、メシア・キリストご自身です。ただし、それは決して自明のことではないのです。これは、ユダヤの人々にとっては、今なお待ち望んでいる出来事なのです。

主イエスご自身が、ご自身の過越の食卓にわたしたちをお招きくださった。この驚くべき出来事を、ヨハネによる福音は、食事の前に主ご自身が弟子たちの足を一人ひとり洗ってさえくださったというさらに驚嘆すべき事実をもって語り始めます。ごミサ、すなわち主の過越の祭りの食卓は、そのようにして始められたのです。

それだけではありません。この主イエスの過越の食卓で、わたしたちのために裂かれるパンとわたしたちのために注がれるブドウ酒。それは、主イエスご自身です。じつに主ご自身の御からだと御血です。マルコによる福音は、次のように伝えます。

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしのからだである。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」

これが、主イエスと弟子たちの過越の食事。これが、主とわたしたちのごミサです。

ユダヤの人々のみならず、わたしたちも悩みや苦労の多い人生で、救い主キリストをひたすら待ち望んできた日々があったのではないでしょうか。救い主のために食卓を整えて待っていても、いつもその席が空席のままのような、長く虚ろな時間に疲れてしまったことが、かつての皆さんにもあったのではないでしょうか。

しかし今日は違います。このごミサは、主イエスご自身がわたしたちのために整えてくださった食卓。ルカの福音によれば、「イエスは言われた。『苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過ぎ越しの食事をしたいと、わたしは切に願っていた』。」 

食事の前に、一人ひとりの足をご自身で洗ってくださるほどに、救い主キリストご自身が切に願ってくださっておられた、主ご自身とわたしたちとの過越の祝い

長い間、わたしたちは自分の願いの中に救い主を求めて来ました。しかし今、このごミサでは、主イエスご自身の切なる願いの中にわたしたちが招かれています。

主イエスのわたしたちへの切なる願い。それは、ご自身のすべてを、ご自身の御からだ、ご自身の御血の最後の一滴に至るまで、わたしたちにくださること。それは、わたしたちを神の国の食卓に招き、ご自身のいのちに生かしてくださるためです。

救い主キリストを待ち望んできたわたしたちの願いに先立ち、わたしたちをご自身の愛の内に、ご自身のみ国に招き入れたいとの主イエスの切なる願いが、すでにわたしたちに向けられていたのです。そして今、わたしたちはこのごミサで主ご自身の限りなく深い願いの中に、強く、優しく、また確実に抱きしめられてよいのです。

救い主キリストのわたしたちへの切なる願いに抱かれて、今、わたしたちは、このごミサ、メシア・キリストご自身の食卓で、「神の国への過越」を祝っています。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 3/24

受難の主日(枝の主日)マルコ15:1-39

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「本当にこの人は、神の子だった。」 ご一緒に福音にお聞きしながら四旬節を歩ませていただいて参りました。それは、ちょうど主イエスに伴って、主とともに、福音に語られた人々との出会いを重ねる旅のようでもありました。

主イエスの出会われた一人ひとりの辿った人生は異なっていました。その中には、主にお会いするや否や主を信じ、素直に自分たちを主に委ねていった多くの人々がいました。しかし、主のみことばを聞き、主のみ業に与りながらも、なお主を疑い、主イエスを神の子キリストとして受け入れることができなかった人々もいました。

あるいは、エルサレムの群衆のように、ひとたびは主イエスを救い主・キリストと歓喜の声をもって迎えたにもかかわらず、その同じ週の内、まさにその舌の根も乾かぬ内に、その同じ主イエスを、「十字架につけよ」と叫び出した人々もいました。これらの人々の内、いったい誰がこのわたしなのか。実際は、そのすべての人々がこのわたしである、あるいはわたしであった、というべきかもしれません。

復活の主イエスの使徒パウロは、「聖霊によらなければ、だれもイエスは主である、と信じることはできない」(Iコリント12:3)と告白しています。その通りだと思います。わたしたちが、もし喜んで御子キリストを信じさせていただいているというのであれば、それはひとえに父なる神の恵みであり、聖霊の御導きであると思います。

事実、主イエス・キリストを疑わず信じさせていただく、これは本当に恵みです。神に対する最も難しい罪とはなんでしょうか。神に背き悪事を行うことでしょうか。それなら回心して神に立ち返ることもできるでしょう。実は、最も深刻な罪とは神を疑うことです。主なる神キリストを疑い続ける限り、その人には心底から信じ自分を委ね切ることができる神も、回心して立ち返るべき神もいません。救いがありません。

主イエスの時代の律法学者やファリサイ派の人々がそうでした。彼らは、約束されていた救い主・キリストを、熱心に待ち望んでいた人々でした。しかし、彼らは主イエスにお会いした時に、彼を神の子キリストと受け入れることができませんでした。自分たちを主に委ねることができなかったのです。自分たちの知恵に頼って主を疑ったからです。それが罪です。主は、それを本当に悲しまれたに違いありません。

律法学者だけではありません。主イエスを信じ切れず、主に自らを託しきれず、どこかで主を疑うわたしたちのただ中で、そのわたしたちのために、黙々と十字架を負って歩まれる主イエス・キリスト。四旬節の間、主とともに多くの出会いを重ねてきた中で、わたしたちは、わたしたち自身に、また同時に主イエスご自身に、繰り返し出会い続けてきたのではないでしょうか。主を疑うわたし、に。そして、そのようなわたしのために、主を疑うわたしの罪を一身にご自身の十字架として背負い、背負い抜いてくださる主イエス、に。

どこかで主イエスを疑っていたがゆえに、かつては主に捧げる何物も用意できなかったわたしでした。しかし、主はそのわたしのために、十字架の死に至るまで、ご自身の一切を、ご自身の御からだと御血の最後の一滴に至るまで捧げ尽くしてくださいました。十字架の主イエス・キリストは、このわたしの疑いの罪を破り、わたしに信仰をお与えくださる唯一の神です。

「信仰の神秘」。それは、主イエスが、主を疑うこのわたしを、主を信じる者としてくださった、つまり主ご自身がわたしの「信仰そのもの」となってくださった、ということです。どこかで神を疑うこのわたしが、主なる神キリストを信じさせていただくためには、それしか道が無かったのです。

主イエスの十字架。ここに初めて、そして最終的に、わたしたちの神への疑いが破られ、わたしたちが神を信じ、わたしたち自身を神に委ね切り、わたしたちを神に捧げつくして生きて行くことが赦される新しいいのちが、わたしたちの身の事実とされたのです。それが、「信仰」です。「信仰は、まさに主イエス・キリストによってわたしたちに与えられた恵みの神秘」です。

信仰。それは、主イエスがご自身の十字架の死をかけて、わたしたちをもはや主を疑うことができない者としてくださった、神なる主の恵みの事実です。そして、その事実を事実として受け入れさせてくださるのは「聖霊」、すなわち活ける主イエス・キリストによると 、復活の主イエスの使徒パウロは教えています。

主イエスはわたしたちの疑いの罪を破り、ご自身がわたしたちの信仰となってくださるために、ご自身のいのちをわたしたちにお与えくださいます。みことばとご聖体において。それがミサです。わたしたちは、ミサで、主から信仰をいただくのです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 3/17

四旬節第5主日 ヨハネ12:20-33 

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

ご一緒に福音にお聞きしながら、主イエスに伴われて四旬節の歩みを進めて参りました。次の主日は、いよいよ「枝の主日」。主の過越を、わたしたちもご一緒に祝わせていただく聖週間を迎えます。一年のカトリック教会の暦で、最も大切な時です。

さて、「枝の主日」に、主イエスはエルサレムに入城されました。その後の聖木曜日の晩の弟子たちとの「最後の晩餐」までのある時のこと、弟子たちとともにエルサレムの神殿を訪れた主が、そこで人々に語られた、神殿での最後となった主の説教を、ヨハネによる福音は極めて丁寧に伝えてくれています。

今日の福音は、主イエスのその時の説教の冒頭の部分です。主は、この説教を、「人の子が栄光を受ける時が来た」という、忘れがたいおことばによって語り始められました。

「栄光」。今日の福音の中で、このことばは三度繰り返されます。最初は、主イエスがご自身を指して、「人の子が栄光を受ける時が来た」。 次には、「父よ、御名の栄光を現わしてください」との父なる神への祈りの中で。 最後は、天の父なる神からの声として。「わたしは既に栄光を現わした。再び栄光を現わそう。」

「栄光」。それは、父なる神が、御子キリストを通して現わされる栄光であり、御子が、父なる神からお受けになる栄光です。ただしそれは、「一粒の麦が地に落ちて死ねば」と、明らかに主イエスご自身の死に結び付けられています。その時、「栄光」とは、一体いかなることなのでしょうか。

「栄光」。それは、「聖なる神の輝き」です。ただし、主イエスが話しておられたユダヤの言葉では、「栄光」と訳される言葉は、元来は「きわめて重いもの、ないし最も重いもの」を指す言葉でした。

その時、主イエスにとって、「最も重いもの」とは一体何でしょうか。十字架の死を目前に控えておられたこの時、主イエスにとって、父なる神からお受けになるべき「栄光」、つまり「最も重いもの」とは、まず何よりも、主ご自身の負われる十字架のことではなかったでしょうか。また、同時にそのことは、父なる神が、わたしたちにとって、実は、いかなる方であるのかをも明らかにしてくれていると思います。

御子キリストにおいて、ご自身の「栄光」を現わそうとされる父なる神。この方は、決してわたしたちから遠く離れて、わたしたちをその罪に従って裁かれるような方ではありません。むしろわたしたちの隣りで、本来わたしたちの負うべき重い十字架を負って、ともに歩んでくださる憐れみの神であられるということです。

これだけでも驚くべきことです。しかも、それだけではありません。主イエスは、今日の福音、主の神殿での最後の説教を、次のように結んでおられます。

「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

父なる神が、御子キリストによって現わされる「栄光」。それは、父なる神のみ旨に従って、わたしたちのために主が負い切ってくださる十字架の「重さ」のことだけではありません。地上に堅く立てられた主の十字架を通して、父なる神が御子とともに天に引き上げてくださる、わたしたち一人ひとりの命の「重さ」でもあるのです。

「神の栄光」。確かにそれは、十字架の死を経て、ご復活の栄光の内に天へと過ぎ越して行かれる、主イエス・キリストの過越の成就です。しかし同時に、それは、主とともに十字架に死に、さらに主の聖霊の注ぎによって聖(きよ)められ、主の復活のいのちに重ね合わされて天に上げられて行く、わたしたち一人ひとりのいのちの過越の成就でもあるのです。

神の「栄光」。父なる神が、御子キリストによって現わされる栄光。その重さ。それは、わたしたちのための主の十字架と復活、そしてご昇天。主の過越の勝利の重さです。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

「地に落ちて死んでくださった一粒の麦」、すなわち主イエス・キリスト。実は、わたしたち一人ひとりこそ、その主の重い「栄光」によって結ばれた尊い実りです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。