司祭の言葉 7/31

年間第18主日C年

 「ラビ」と呼ばれるユダヤ人たちの宗教指導者は、宗教的な教えだけでなく、実際の人々の生活の中での相談にものり、もめごとの裁定にも関わりました。イエス様に訴えた人は、そのようなラビの1人としてイエス様を見ていました。

 最近、銀行からは私に、遺産相続をお手伝いますよ・・という手紙が来ます。
 さいたま教区からは、遺言を書いておいて・・という手紙が来ています。書く気が起きないのでまだ出していませんが・・・。
 今セウイのグループホームの大きな問題は高齢者の処遇です。設立から30年を過ぎ、入所者も高齢となりました。その終の棲家をどうするか。 私たちも同じ問題でいつも悩んでいます。
 年金で生活できると思っていたのが、最近は、老後資金として2000万ほどのお金が必要だと言われています。

 自分の力でなんとかしよう、人間の力ですべてをうまくやっていこう、とわたしたち現代人は考えています。そのためには、やはりお金が必要だ、ということにもなります。金持ちのほうが高度な医療を受けられますし、発展途上国の人には充分な医療が行き届かない、というような現実があります。

 多くを持っているものに対して、イエス様は今日のたとえを語りました。この男について次の言葉が際立っています。
 「さあ、これから先何年も生きていくための蓄えが出来たぞ」

 わたしたちの多くは、この言葉を言うために頑張っているのではないでしょうか。

 イエス様はこの金持ちに、愚か者という言葉をお使いになります。

 ここで、チコちゃん流に質問してみましょう。
 イエス様のおっしゃる「愚か者」って、どういう人でしょうか?

 考えてみたことがありますか? ボーっと生きてんじゃねえよ。
 そういわれてしまいますよ。 何かいい答えが見つかりましたか?

 答えは、「神はいないという者」のことです。

 聖書は愚か者について、次のように言っています。
 「愚か者は心で、『神はいない』と言う」・・・と。(詩編14の1)

 わたしたちが、もし人間の力やお金の力ですべてがなんとかなると思っているならば、「お金が神」になります。 そして、聖書の解釈では、愚か者とは、「神の存在を実際の行いの中で否定する者」のことなのです。

 イエス様のたとえは今の私たちに対して語られています。
 人間にとってもっとも顕著に「無力さ・限界」を感じるのは、死に直面したときです。「今夜、お前の命は取り上げられる」・・・いつ自分の死が訪れるか、本当はだれも知らないのです。その時、富は頼りにならない、
 本当に問われるのは「神の前に豊かになる」ということなのだ、とイエス様は語ります。

 ジョンウエスレーという18世紀のイギリス国教会の司祭の話を思い出します。
 彼は30ポンドの給料の時28ポンドで生活し、2ポンドを寄付しました。60ポンド90ポンド120ポンドと給料が上がっても、28ポンドで生活し、残りを寄付したそうです。 王室の会計係が彼に財産の申告書を要求してきました。彼は「ロンドンとブリストルにそれぞれ銀の匙が二個ずつ、それが私の持っている金銀の食器のすべてです。また将来も周囲の人々がパンを必要としている以上、これ以上買うつもりもありません。」そう答えたそうです。
 ローマ人のことわざに、「金は海水のようだ」というのがあるそうです。
 どういう意味でしょう。それを飲めば飲むほど渇く・・ということです。

 今日のイエス様の言葉を私たちはどのように受け止めるのでしょうか?

 そして今日の朗読にはありませんがこの後に続くみ言葉は、野の花の話です。

「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにもきかざってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ」

 少しの資産しか持たないものに対してもイエス様には言っておきたいことがありました。それは、無為無策で無鉄砲な生き方を勧めているのではなく、過度の思い患いを戒めている・・ということです。

 野の花とは、パレスチナで多く見られるアネモネの花のことです。
 パレスチナは木の少ないところなので、乾いた野の草が炉の火に用いられたのです。