司祭の言葉 8/21

年間21主日C年

 新型コロナウイルス感染予防の規制緩和で、三年ぶりに移動の規制がなくなり、今年のお盆帰省は混雑したようです。特に高速道路は、蜜を避けて車にする人が多く、関越自動車道や東北自動車道もかなり込み合いました。 料金所も、ETCを使いますと、チケットを出さなくても車はそのまま通れるようになっていますが、通過するのは一台ずつであることには変わりがありません。

 イエスは神の国に入るのに「狭い戸口から入るように」とおっしゃいます。

 神の国の入り口は狭い。しかも、私たちが太ってしまうためにその戸口はさらに狭くなります。 
 ある時、現在熊谷教会にいらっしゃる藤田薫神父様と夕食の時、片足でかがみ、またそのまま立てるか、何回出来るかという話になったことがあります。藤田神父様はいつでも5回は出来る。足には自信があるという。わたしもやってみようと言ってしゃがんでみた。ところがしゃがめないのです。お腹の厚みがじゃまになって・・・

 太るのは体だけではない・見栄、傲慢、財産、えとせとら。
 司祭志願者は、神学校に入るときカバン一つですが、司祭になった時には段ボール箱20個ほどに。そして教会を移動するときには、トラックが必要になります。
 もちろん置いて行かれても困りますが。人によって必要が違いますから。

 狭い戸口から入るように努めなさい。

 この狭い戸口とは、何を意味するのでしょうか。お屋敷の正門わきのくぐり戸、お城の大手門わきのくぐり戸、あるいは茶室のにじり口を連想します。一人ずつ、個別に招き入れられる入り口です。

 アブラハムの子孫であるユダヤ人は、自分たちは当然のこととして、神の国に入れると思っていました。でも神の国は団体客としての招きではないのです。

同じことはキリスト者にも言えます。キリスト者だからと言って救いが確実なのではありません。団体客専用の入り口はないのです。

 「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」という言葉は、非常に多くの人がそこに受け入れられる感じであると思います。
 でも「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」という言葉は、「先だと思っている人が神の国では後になり、後だと思っていた人が、神の選びでは先になる」ということです。アブラハムの子孫である自分たちに優先権があると思っていた人たちは、驚いたことだろうと思います。

 マタイ福音書には「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」7の21との言葉があります。
 そして25章には次のような言葉があるのです。
 「それから王は左側にいる人たちにも言う『呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその手下たちのために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いていたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに訪ねてくれなかったからだ。』」25の41-43
 「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」25の45

 記されている神の裁き・判断の基準は明白であると思います。

 ウイリアムバークレーが紹介しているお話があります。
 昔あるところに、贅沢の限りを尽くし、あらゆる尊敬を受けていた一人の女がいた。その女が死んで天国につくと、彼女をその割り当ての家に案内するために、一人の天使が送られた。二人は素晴らしい邸宅をいくつも通り越していった。その女は、それを通り過ごすたびに、これが私に与えられた邸宅に違いない、と考えた。天国の大通りを過ぎて郊外に近い場末に来ると、そこはずっとずっと小さな家が点点としていた。とうとう一番端まで来ると、そこに、山小屋よりもまだ小さい一軒の家があった。「あれがあなたの家です」とガイドの天使が言った。「なんですって、あれがですか」と女は思わず叫んだ。「あんな家には住めませんよ」。「お気の毒ですが」と天使が言った。「でも、あなたが送ってきたもので建てられるのは、これでせいいっぱいなんです」。

 狭き門から入るとは、地上にではなく天に宝を積むこと、主のみ心を行うこと・・・ではないでしょうか。