司祭の言葉 2/13

年間第6主日

 皆様おはようございます。
 年間第6主日のホミリア(説教)をお届けします。昨日は雪となりましたが、今日は暖かな日差しが降り注いでいます。皆様にはお変わりございませんでしょうか。
 オミクロン株の勢いは収まらず、埼玉県の新規感染者は今日も5947人となり、蔓延防止措置も3月6日まで延長される見通しです。
 主日のミサの再開もまだ司教様から新しい指示は出ていません。平日のミサは参加者が少ない場合は許可されていますが、当教会は平日の参加者が20名ほどおり、主日のミサのない今、平日のミサをすれば30人ほどになると予想されます。したがって残念ながら、平日のミサも引き続き中止とさせていただいています。先日も教会で幼児の洗礼式をする予定でしたが、参加予定者の中に感染者が出たとの知らせがあり、中止といたしました。まだしばらくは自粛が必要です。

 今日は平地の説教と言われているものです。マタイ福音書では山上の説教と言われているものと同じ内容を含んでいます。この説教は大きな驚きをもって迎えられたと思われます。当時のユダヤ人たちの価値観をひっくり返すようなものだったからです。
 貧しい人が幸いだなんてとんでもない・・・当時のユダヤ人ならみなそのように思ったことでしょう。 豊かさこそは神の祝福であり、貧しさは神の罰と考えられていたのですから。

 皆さんは司祭のホミリアを聞いて、なるほどと思いながらも、でもその通りには受け取ることができないでいると思います。

 「貧しい人は幸いである…」というと一つの叙述文ですが、原文の語順どおりに訳せば、「幸いだ、貧しい人々よ。なぜなら、あなたがたのものだから、神の国は」となります。これは目の前の人に向かって、おめでとうと語りかける祝福の言葉なのです。
 「貧しい人」「飢えている人」「泣いている人」がなぜ幸いなのでしょうか。それは「神の国はあなたがたのもの」だからです。神は決してあなたがたを見捨ててはいない、神は王となってあなたがたを救ってくださる、だから幸いなのです。
 「あなたがたは満たされる」「笑うようになる」も神がそのようにしてくださるということを意味しています。これこそがイエス様の福音(よい知らせ)なのです。

 幸せになりたい、これは万人の切なる願いです。
 人はみな生きる権利を持っているのと同じように、それぞれは幸せを追求し、幸福になる権利を持っています。けれども人間を真に幸せにするのは何でしょうか。
 財産があれば将来は困らない、と一応は安心できます。けれども、いつ何処で短いローソクが消えるかは誰にもわかりません。草は枯れ、花はいずれしぼむのですから。

 ここには衝撃的な言葉があります。
「しかし富んでいるあなた方は、不幸である。あなた方はもう慰めを受けている。」(ルカ6の24)とイエス様は言います。
 ここで言う「受けている」という言葉は、支払いをそっくり受けているという商業上の言葉です。領収書などに書かれる言葉で、「もう後に受け取るものは何もありません」という意味です。バークレイという神学者はこの言葉を解説して次のように言います。
 「イエスは次のように言いたかったのだ。あなた方は全身全霊を注ぐなら、この世が価値を認めているものを皆得ることができるだろう。しかし、あなた方の得ることのできるものはそれだけしかない。」

 心が冨によって満たされている人は・・・・一切は冨によって解決できるという錯覚に陥り、本人自身がそれに気づかないままにいつのまにか、傲慢な人間になって行きます。
 一方、貧しい人は神により頼み、神に信頼して生きて行きます。キリストはこのようなまずしい人々には神の特別な祝福があることを保証しておられるのです。

「2021年、世界上位1%の超富裕層資産が、世界全体の個人資産の37.8%を占めたことが、経済学者ら100人超による国際研究で分かった」・・・との記事が埼玉新聞に掲載されました。記事は、不平等は今後も広がり続け、巨大な水準に達すると懸念していました。日本も富の分布は、「西欧ほどではないが非常に不平等だ」と指摘しています。

 イエス様の今日の説教をキリスト者はみな知っていますが、みな他人事のように聞いています。
 教皇フランシスコは、回勅「ラウダートシ」の中でいま私たちが行動を起こさなければ、世界は大変なことになると繰り返しています。富に対する執着を絶たなければ、人類の未来はない…というところまで来ているといいます。

 私たちの重大な過ちは、「貧しい人」という言葉を、自分に置き換えて聞いていることです。イエス様がこの言葉を語られるとき目の前にしたのは、ユダヤの、日々の糧にも事欠く貧しい人たちでした。彼らにイエス様は幸いだと言われたのであって、私たちにではありません。私たちは彼らのように貧しい人の部類には属していません。多少の貯金もあり、その日暮らしではないからです。アフリカやシリアの難民ならそうでしょう。彼らはその日暮らしですから。
 また今日の日本を見るなら、入国管理事務所から仮放免されている人たちが当てはまると思います。収容所からは放免されましたが、働いてはいけないというのです。どのようにして生活してゆけばよいのでしょう。保険にも入れない上に収入の道もない。大きな病気になれば死を待つばかりなのです

 覚えてください。私たちはイエス様の弾劾する、お金持ちのほうにいるのです。私たちは「災いだ」と言われているほうに位置しているのです。そのことをわきまえてきょうのことばを聞くべきなのです。

 貧しい人は幸い、逆説的な、この言葉の意味をしっかりと悟らせてくださるように、そして今何をなすべきかを悟らせてくださるように祈りましょう。