司祭の言葉 2/28

四旬節第2主日 (マルコ9・2-10)

 皆さんおはようございます。今日のみ言葉は主の変容です。変容は変身とは違います。
変身願望は多くの方が持っていると思います。いつもとは違う自分を演出する。演劇などはそのいい例です。みどり幼稚園の子供は年長組になると聖劇をしますが、男の子はヘロデ王になりたがります。腕組みして家来に命じるところがかっこよく映るのでしょう。
 宮代町にあるの進修館という市の建物は蔦の絡まる洋館風、それで若者たちが月に一度コスプレをして、写真を撮るために集まっています。まんがの主人になりきっているようです。昨年はコロナでできなかったのですがハローウィンには多くの仮装した人たちが集まっています。今幼稚園の子供たちは多くの子が、鬼滅の刃の主人公たちの衣装のチェック柄や絞り柄のマスクをしてきます。いつの時代でも・・変身願望は、大人にも子どもにもあります。自分の性格を変えたいと思うのでしょうか。それもまたストレス解消のための一つの手段となるようですから、試してみるのもよいと思います。

 変身は外観が別なものに代わるのですが、ご変容は自分以外の何かになるのではなく、イエスの内心の輝きが表に現れたものです。この来事を通して神はイエスと弟子たちにメッセージを送りました。
 直前の箇所は、8章のペトロの信仰告白と最初の受難予告です。 マルコ福音書は3回の受難予告を伝えていますが、いつも弟子たちはそれを理解できず、見当はずれのことを考えています。弟子たちさえ理解できないことを、世の人々は理解するのか、サタンは「無駄死にになる、むしろこの世の力を使ったらどうだ」と、イエスにささやきかけます。

 モーセは神と直接対話をし神から律法を授けられたお方、エリヤは最初の預言者、それも偉大な預言者でした。旧約聖書の「神の言葉」はモーセ五書と言われる創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記に記され、さらには預言者に与えられましたので、モーセとエリヤは旧約聖書を代表する人物なのです。その二人がイエスに現れたことは、神がイエスの決断を正しいと認めたということであり、イエスの受難と復活が聖書に記された神の計画の中にあることを示しています。

 イエスの洗礼の時に下った同じ神の言葉が再びイエスの上に響きわたり、イエスの決断が神の望みであると示され、イエスの迷いはなくなりました。他方、弟子たちは、イエスがエルサレムに行くのは死ぬためだと聞いて衝撃を受けていました。彼らが理解していたメシア像とは全く異なるものだったからです。彼らにはイエスの言葉が理解できず、当惑していました。
 彼らはこの山の経験によって、理解はできなかったものの、イエスに付き従ってゆくための何かを得たのです。
神学者バークレーは、「十字架があるにしてもないにしても、彼らはイエスをご自分の子と認める神の声を聴いた」と述べて、「彼らはイエスの栄光の証人となった」と述べています。

  イエスの変容の姿は受難のイエスに従うように弟子たちを励ますものでした。しかし弟子たちは、結局従うことができませんでした。イエスが逮捕されたとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまったのです。果たして私たちはどうでしょうか。

司祭の言葉 2/21

四旬節第1主日 (マルコ1章12-15節)

2021.2.21春日部加須

 皆さんおはようございます。体調にお変わりございませんか? 司祭は今日も担当する教会の皆さんのために、一人でミサを捧げさせていただきます。
 先週の灰の水曜日から教会は四旬節に入りました。断食の季節です。昨年から二年続けて灰の式を行うことが出来ませんでした。聖週間の典礼も出来るかどうか予断を許しません。でも私たちは夫々自宅に居ながらも自分たちで、聖週間の務めを果たしましょう。灰の式を受けることが出来ませんでしたがもっと大事なことは金曜日の第一朗読の、イザヤの預言の言葉です。
 「葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと/それを、お前は断食と呼び/主に喜ばれる日と呼ぶのか。わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。あなたが呼べば主は答え/あなたが叫べば/「わたしはここにいる」と言われる。」(イザヤ58章5-9)

今世界中が新型コロナウイルスの脅威にさらされていますが、そのワクチンを貧しい人にもすべての人に届けようとの声が上がっています。金持ちだけが接種してもコロナを抑え込むことはできないからです。かつてこのような声の上がったことがあるでしょうか。今ようやく全人類が一体であることに世界は気付き始めています。
 四旬節には愛の献金が呼びかけられます。それは形を変えた断食です。教会に行けなくても忘れないようにしましょう。さて、福音のホミリア(解説)に入ります。

 12節で霊はイエスを力ずくで「荒れ野」に「送り出し」ます。・洗礼のとき以来、神の霊はいつもイエスの行動を導いています。 「送り出す」の原語は、「追い出す」と言う動詞です(エクバッロー)イエスが悪霊を「追い出す」時にも使われる言葉で「力ずくで追い出す」といった強い意味を含んでいます。
 「荒れ野」は水や食べ物が欠乏している場所で、生きるのに厳しい場所です。しかし、イスラエルの民は40年間に及ぶ荒れ野の旅の中で、神はモーセに命じて岩から水を湧き出させ、天からは「マナ」(これはなんだの意)と呼ばれる不思議な食べ物を降らせて、民を養い導き続けました。そこは試練の場所でしたが、その荒れ野の中には、神との親しい交わりがあったのです。

 イエスはどうしてこの荒れ野に導かれたのでしょうか
「40日間留まり・・と野獣と一緒におられたが」  その間にあるのが
「サタンから誘惑を受けられた」という言葉で・・ここに重点が置かれています。

 イエスを守ろうとする天使と、イエスを滅ぼそうとするサタンの戦いの激しさを、この構成が如実に示しています。イエスはサタンの試みを受ける事によって、神とのかかわりを確認し、その使命を自覚します。・・・そして福音の宣教に入ります。
 ジーザスというイエスの生涯を描いたビデオのなかでサタンの誘惑の場面があります。  その中でサタンはイエスの名において戦争をする十字軍の場面や、十字を切りながら戦う兵士、イエスの名を呼びながら死んでゆく兵士たちの姿を描きます。そして、十字架にかかっても戦争はなくならない、無駄死にだ。平和は権力を握れば実現できる・・といいます。またスラムに生活する人たちの姿を映し出しながら、自分を礼拝すればこの世の富を与える、そうすれば彼らにパンを与えることができる、自分の力をつかえ、これらの意思をパンにしろとも迫ります。
 イエスの苦しみは、人々は十字架の意味を理解し、神に立ち返るのか、

 イエスの十字架によって人々はその生き方を変えるのか、
 罪の許しを信じ、互いに愛し合うようになるのか、無駄死にではないのかというものです。

イエスの十字架を信じる者は、このイエスの苦しみに対して、無駄死にではなかったと証明することが求められるのです。   国際情勢を見れば、問題山積です。
 福音を信じるとは、平和をつくることです。愛を信じることなのです。

「天使たちが仕えていた」  
 エリシャと従者のいる町がアラムの兵馬に取り囲まれたとき、おののく従者のためにエリシャが主に祈ると、主が従者の目を開かれます。その時従者は、火の馬と戦車がエリシャを囲んで、山に満ちているのを目にします。(列王記下6の17)
 イエスが戦っているとき天使たちが傍にいたように、私たちの試練の時も、主は私たちの傍に天使を送っていて下さる・・自分一人ではない、そう信じて頑張りたいと思います。

司祭の言葉 2/14

年間第6主日 マルコ1章40-45節

 「重い皮膚病」は、以前は「らい(病)」と訳されていましたが、1996年の「らい予防法」廃止後は「重い皮膚病」と訳されています。 この方々の苦しみは想像を絶するものでした。 (レビ13章45-46節には次のように記されています)。
 重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。

「宿営の外」は共同体から切り離された場所です。会堂に行き、ともに神を賛美することもできませんし、隣人とのかかわりも断たれます。肉体的な苦しみに加え、精神的にも追い込まれ、絶望的な状況に立たされます。
 (映画、ベン・ハーでは、母親と妹が思い皮膚病にかかり、宿営の外、深い谷底の洞窟の中で同じような病気の人たちと施しもので生活している場面が描かれています。
 イエズスマリアのみ心会の会員だったダミアン神父は、アメリカ合衆国ハワイ州モロカイ島で、当時誰も顧みなかったハンセン病患者たちのケアに生涯をささげ、自らもハンセン病で命を落としました。当時、患者たちは見つかるとすぐモロカイ島へ隔離され、そこで誰からも世話されずに亡くなっていくのが運命だったのです。)

 「深く憐れんで」(スプランクニゾマイ)は、「はらわたを揺さぶられる」という意味の言葉です。しかしながら、古い写本の中には「怒って」となっている写本もあるのです。
 書き写す際にわざわざ難しく書き換えることは考えにくいと言う理由で、本来「怒って」だったのではないか、と考える神学者もいるようです。イエスはラザロが死んで墓に行く途中「憤った」と述べられています。
 イエスはこの世に存在する悪とその働きに対して、強い怒りを覚えたのです。
 イエスは目の前の苦しむ人との出会いの中で心を揺さぶられ、その人を助けます。

 主はまたモーセに言われた、
 「らい病人が清い者とされる時のおきては次のとおりである。すなわち、その人を祭司のもとに連れて行き、祭司は宿営の外に出て行って、その人を見、もしらい病の患部がいえているならば、(中略)清められる者はその衣服を洗い、毛をことごとくそり落し、水に身をすすいで清くなり、その後、宿営にはいることができる。(レビ記14章)
 「祭司に体を見せる」ことは社会復帰のための条件でした。肉体的にいやされても、祭司によって清いと宣言されなければ、もといた村や家族のところに帰ることはできないのです。
 司祭に見せるようにと言われたイエスは、ただ単に彼の肉体的な病をいやすだけでなく、彼が社会との絆(きずな)を取り戻すように、背中を押したと言うことが出来ます。

 イエスは絆を取り戻すために来ました。神と人々との間の失われた絆を取り戻すために。人間と自然との絆、調和を取り戻すために。イエスの十字架による贖いは、まさにそのためでした。
 話はちょっと飛びますが、先週2/7のNHKスペシャル「飽食の悪夢」はショッキングでした。飽食の結果、水と食料の危機(クライシス)が迫っていると言うのです。あと10年が残された時間で、この間に自然との調和を取り戻さないと、取り返しがつかなくなると。その前に持続可能なシステムを探し出す必要があるというのです。
そのためには、健康にも地球環境にも理想的な食事の仕方、プラネタリーヘルスダイエットを推進して、飢える人を無くす必要があると述べていました。
大豆で作った人造肉は、同じ量の牛肉に比べ、水を90%土地の93%エネルギーの50%を削減でき、温室効果ガスを89%減少するとも述べていました。

 イエスの弟子である私たちは、この地球の調和のために、イエスが命を懸けて贖った世界が滅びないように、力を尽くすことが求められていると思います。

司祭の言葉2020/5月〜12月

司祭の言葉 2/7

年間第五主日(B)

 ペトロの姑の癒しの話です。でも、ペトロの奥さんは出てこないのですね。もてなしたのは姑だけではないと思うのですが。何故でしょう。
 イエスによる癒しののち、姑はすぐにもてなし始めます。そこのところを強調したいのではないでしょうか。このもてなしが姑の感謝の心としてのもてなし、奉仕となって示されるのです。姑の喜びと感謝の心が感じられます。そしてこの出来事でイエスの評判は広がってゆきます。

 「もてなす」はギリシア語で「ディアコノーdiakono」といい、「食卓で給仕する」ことを表します。たとえば、 畑から帰った僕は主人のために「給仕する」(ルカ17:8)、目を覚ましていた僕たちに主人が「給仕する」(ルカ12:37)ここにディアコノーが使われています。
 さらには食卓だけでなく、あらゆる奉仕を表し、「仕える」の意味にもなります。たとえば、 悪魔からの試みを受けるイエスに「仕える」のは天使たちです(マコ1:13)し、ガリラヤの婦人たちもイエスに「仕える」人となります(マタ27:55)。
 また、十字架を含むイエスの全活動を表す用例としても、ディアコノ―が使われています。 
「仕えられる」ためではなく「仕える」ために来たイエスは、多くの人の身代金として自分の命をささげます(マコ10:45)。

 ディアコノーと言う言葉から教会の職務の一つであるディアコノス(助祭)が生まれます。使徒言行録の中で、日々の分配のことで教会内に苦情が出た時、食卓の世話をするために7人が選出され、それが教会で助祭と言う職務になります。東方教会では輔祭、聖公会ではデーコン(執事)と呼ばれています。(デーコンと言うと私は大根を思い起こしてしまします。福島で子供のころ大根をデーコンと言っていたように思います。)

 第二ヴァティカン公会議以前は、助祭は司祭への通過点になっていましたが、さいたま教区のように現在は助祭として固有の職務を再確認する方向に進み、司祭には叙階されず、既婚者もなりうる終身助祭(parmanent deacon)の制度が復活しました。
 現在助祭は男性に限られていますが、40歳以上の独身女性の叙階を認めるなどの例が教会の歴史においては見られます。(カルケドン公会議)それで、今後は女性の助祭職も検討してほしいと言う声もあります。

 イエスから癒しを受けたペトロの姑は「もてなす=仕える」人となりました。その後は聖書には述べられていませんが、イエスの弟子となり、イエスのように「愛と奉仕に生きる人」になっていったと考える神学者もいます。イエスに奉仕した多くの女性の中の一人となったかもしれません。イエスのいやしを体験することによって、その人の生き方が変わったと。

 私たちもイエスとの出会いによって心の癒しを受けています。そして生き方も変わってきているのではないでしょうか。

 それからもう一つ、「悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」とあります。原文では普通の「話す」という言葉が使われていますが、「もの言う」は中々良い訳と言えるかもしれません。これについては次のような解釈があるからです。例えば、「肩書きがものを言う」という表現が日本語にはありますが、「ものを言う」は「悪霊が力をふるう」ことと同じだったと考えられる・・・と言うのです。イエスはそれを許さないのです。

 オレオレ詐欺にあってしまう人は、電話で相手と話してしまい、相手の巧妙な話術にはまって、信じてしまうのだと言います。一番いいのは相手に話させないことです。そのためには直接話さないで、録音するのがいいと言います。悪に引き込むような話題にも耳を貸さず、相手に話させないのが一番の防御法かもしれません。