司祭の言葉 5/24

※2020年5月24日(日)復活第7主日A年

主の昇天    司祭 鈴木 國弘

 春日部教会の皆さんお変わりありませんか? さいたま教区では司教様が次の対策を準備中です。25日に政府の発表がありますから、そのあとになると思いますが、発表され次第皆さんの手元にお届けいたします。ミサが開始されたらどのようにクラスター対策をするか、教会で考えをまとめておくことが大切です。どうぞ役員の皆さんにご意見をお寄せください。

24日は主の昇天の祝日です。

 NHKの番組ぽつんと一軒家では、空中から地球を眺め、森などの中にポツンと見える一軒家を尋ねてゆきますが、カメラはぐんぐん地表に近くなり、その家や周りの外観をとらえて、その場所を探しにゆきます。

ご昇天のイエス様の目から見ればその逆で弟子たちの姿はだんだん小さくなってゆくのでしょう。でも私たちの目から見るイエス様はどうなのでしょう。

皆さんは空を見上げるのはどのような時ですか?子供のころ縁日などで買ってもらったゴム風船が、大切に持っていたはずなのに、突然スーッと手を離れて空の方に登って言った経験。それをあーっと手を伸ばしても、ぐんぐん上の方に登って行ってしまったのを、ただ残念に思いながら見送った経験はありませんか?

 空を見上げていた弟子たちも、大切なものが傍を離れて行ってしまって、手が届かなくなり、ただ見送っていたと言う感じなのかもしれません。

ひとむらの雲がイエスを隠したとあるのは、神の「栄光」のうちに入られたことを雲という言葉で示しています。旧約聖書では神の栄光は雲の中に表現されています。そして、 天は「場所」ではないのです。だからでしょうね、「何故天を見つめて立っているのか」と言われたのは。聖書では 神の栄光・・・それは神の卓越性を示しています。

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。
わたしたちはその栄光を見た。

大切なのはイエスが去られたことではなく、イエスが神の栄光を示されたことです。そして神もまたイエスに栄光を与えたのです。その、神の栄光とは、神の愛そのもの。 

 神の栄光はエジプト脱出の時、もえる芝の中にあらわれ、シナイ山では、もえる炎の中から律法を書き記した板を頂きました。その火は神の栄光であり、その栄光は神のご自分の民に対する途方もなく大きな愛でした。そして、その愛は、新約に於いて、キリストの誕生と、十字架、復活を通して現れ、その昇天を持って完成するのです。
 その天に昇られた主は、わたしたちの中に住まわれます。教会だけが祈りの場所ではありません。一人一人はそれぞれ聖なる宮を携えているのです。わたしたちはそのことを、その宮に入ることを忘れてはいませんか? 今日はそのことをもう一度思い起こす日です。