司祭の言葉 7/19

※2020年7月19日 年間第16主日 A年 

毒麦のたとえ(マタイ13章24-43節)       司祭 鈴木 三蛙

 今年は長雨が続いていますが、ようやく晴天の予報も入ってきました。今回の集中豪雨では各地の田畑が水に浸かる被害を受けましたが、作物を作る方は、長雨でも晴天続きでも困りますので、心配は尽きません。イエスの時代にも同じだったのだろうと思います。種をまいてから深く耕すのもその対策の一つでした。

加えて、イエスの時代に、敵対者が毒麦をまいて作物の収穫を妨害することも実際にあったのでしょう。それも、撒いた毒麦は半端な量ではない。非常にたくさん撒いたので、根が絡み合い毒麦だけを抜き取るのは不可能なほどです。

 このたとえはどうして語られたのでしょうか。ドイツの聖書学者、ヨアヒム・エレミヤスの見解は次の様です。

イエスに付き従う人たちの中には、ファリサイ派の基準だけではなくイエス自身の基準からみても、神の前に立つにはふさわしくない人々がいました。そこに生じたのが「なぜあなたは罪びとを神の国の共同体に招いているのか」、あるいは、「弟子にしておくのか」というような批判です。そして、その弁明が今日の箇所だと考えられています。つまりイエスが譬えを語った時の直接の相手は、イエスを批判する人たちだったと言うことです。

家の主人は、「毒麦はそのままにしておかなければならない」という考えです。その理由は、毒麦の量が非常に多いからです。収穫期には刈り取り専門の人が別に雇われます。その人たちに刈り取るときに毒麦と良い麦を分け、良い麦を倉に入れ、毒麦は束にするように言いつけます。

ここで質問ですがなぜ束にするのでしょう。日本人的に考えれば束にせず、山にしておいて燃やしてしまうかもしれません。でも、パレスチナは木が少なく燃料が不足しているからです。ただ焼いてしまうなど無駄なことはできません。束にするのはそれを乾燥させて燃料にするためです。

なぜ毒麦を抜かないのか。理由は二つ語られています。

 生育の初期段階では毒麦と麦が外見上とても良く似ているように、「神の民」も偽信者の間に、秘密として隠されています。それでも選別しようとすると、間違いなく誤った判断をして、毒麦と一緒に良い麦を抜いてしまうでしょう。

 さらには、神が選別の時を定めているからです。種は必ず収穫の時を迎えます。植物の話なら、毒麦はいつまでたっても毒麦ですが、「毒麦」が「罪びとのレッテルを貼られていた人」の意味ならば、「毒麦が良い麦に変わる可能性」、悔い改めの最後の機会がまだなくなってはいないのです。

振り返って私たちの教会はどうでしょうか。教会の中から異質のものを排除しようとする誘惑はないでしょうか。私たちがパリサイ人の立場でものをいうことはないでしょうか。