司祭の言葉 8/30

※2020年8月30日年間22主日A年(mt16:21~27)

聖ペテロ


                        司祭 鈴木 三蛙
 皆さんはペトロをどのような方とみているでしょうか。黒いひげを蓄えた、頭は少し薄くなり始めた、がっしりとした体格の、日焼けした浅黒い、朴訥なガリラヤの漁師。大漁に驚いてひれ伏し、湖上のイエスに驚きおびえどこまでもついてゆくと言いながら三度もイエスの弟子であることを隠す、しかし誰よりも早くイエスをメシアと公言した弟子。
 イエスはエルサレムを目指しています。そこは大王の都。メシアの君臨する場所。ペトロの夢は大きく膨らんでいたことでしょう。 「貴方はメシアいける神の子です」そう言いましたが、そのメシア像はユダヤ人たちが抱いていたメシア像そのものでした。そしてイエスとともに歩くうちにひそかに心に思うことがありました。イエスがメシアなら来るべき王国で、特別な地位につくことが出来るかもしれない。ガリラヤの漁師が、王の側近になる・・・。権力の中枢に立つ。
 その時受けたイエスの受難の予告。慌てたに違いありません。大きな声をあげ、イエスの言葉を遮り、わきへ引っ張ってゆき、それ以上語らせまいとしたのでしょう。
 そして受けた「サタン、引き下がれ」と言うイエスの、これまた激しい叱責。 ヒパゲー オピソー ムー サターナ Vade post me Satana。  「去りなさいサタンよ」  この言葉は荒野の誘惑のときの悪魔に、イエスが語った言葉でもあります。しかし、ペトロには悪魔のときとは違って「私の後ろに」が付け加えられています。
 イエスは漁師のペトロと最初に出会ったとき、「私についてきなさい」といっています。直訳では、「来なさいわたしのうしろに」です。弟子であるペトロはサタンのようにイエスの前に立ちはだからずに、イエスの後ろに回って従うべきだということでしょう。
 十字架に登るメシアを理解できずに、それは「とんでもないことだ」とのべたペトロは、イエスにとってサタンの誘惑なのです。荒れ野で石をパンに変えるようにとイエスにささやいたサタンは、今ペトロの口を通して、再び誘惑したのでした。
 当時のユダヤ人が待ち望んでいたメシアは十字架のもとに、むなしく殺されるような無力な敗北者ではありませんでした。 イエスをいさめるペトロも、ユダヤ人の常識や「人間の思い」から自由ではありませんでした。そのペトロはイエスをいさめ、「あなたはわたしの邪魔をするもの」としかられてしまいます。原文ではスカンダロンscandalum「つまづき」と言う言葉が使われています。
 ペトロが天の父のものとなって発言するときには「幸いだ」と祝福され、人間の思いにとらわれたときには、「つまづき」とされ、「サタンひきさがれ」と叱られます。 人間的な栄光を求めるとき、サタンの誘惑に陥ってしまいます。ペトロは弟子のあるべき場所「イエスの後ろ」に立ち、十字架に向かって、前を行くイエスに従うべきなのです。