司祭の言葉 12/20

待降節第四主日B年 2020.12.20

マリアのフィアット

 主の降誕を間近に迎えた今日のみ言葉は、マリアへのお告げです。マリアはこの時喜んだのでしょうか。皆さんはどう思っておられましたか?
 マリアは心底困惑したと思います。フランスの宗教史家ダニエル・ロップス著(1901~1965)「イエス時代の日常生活」はこう記します。「イスラエルは早婚であった。男は18歳が結婚に最適であると考えた。娘は早く結婚させられた。律法によれば12歳半が適齢であった。童貞マリアがキリストを生んだときは、かろうじて14歳の少女であったに違いない。」婚約者によらない妊娠・・それが神の業であっても、ユダヤ人社会の厳しい道徳律がありました。石打の刑です。「姦淫の罪を認められた婚約者は、妻のごとく投石された」とダニエル・ロップスは記しています。
 マリアは(なれかし)と答えました。命の危険を覚悟してのことだと思います。

 信仰が人間を否応なしに困惑する事態に直面させることがあります。人間の弱い心はそれを嘆かずにはおれません。遠藤周作の短編 最後の殉教者に登場する 浦上中野郷の喜助は、象のように大きいからだですが、しかし無類の臆病者です。 蛇をみても飛び上がりますし、悪ガキから一物を見せろと言われても堪忍してつかわさい、堪忍してつかわさいと平謝りするだけです。同じ仲間の伸三郎はそれを見ていて、ゼズスさまを裏切るユダのようになるかもしれないと危惧します。
 1867年の夏 浦上四番崩れで提灯を掲げた取り方が包囲、捕らえられた時、取り方が両手両足 首、胸に縄をかけ、一か所にくくると、「かんにんしてつかわさい 」とくりかえしころびます。しかし、のちに、捉えられた仲間を見て津和野の仲間のもとに戻るのです。その時、甚三郎は「くるしければころんでええんじゃぞ お前がここに戻ってきただけでゼズスさまは喜んでおられる」と叫びます。

 塚という石碑があります。青面金剛と三猿を彫った石で、青面金剛の身は青く、目は赤く身に蛇をまとい足下に二匹の鬼を踏みつけています。肺病を除く鬼で、神道では猿田彦・天孫降臨の道案内です。 鼻が高く神社の祭礼では天狗の面をかぶり矛を持っています。 渡良瀬遊水地の近くにある庚申塚の像は、ミトラのような被り物をかぶり、手に持つ錫杖の上部は十字架になっています。
 庚申講はあやしまれずに集まって祈ることのできるひとときでしたので、隠れキリシタンによって利用されたといいます。この庚申塚を彫ったキリシタンは、どのような思いで石を刻み、それを野辺において祈ったのでしょうか。露見したときのことを思わなかったか、どのように子孫に伝えようとしたか、など考えてみます。

 神を信じることが生命の危険を伴った、神の命をいただくことがこの世の生命と引き替えだった時代がありました。 
 でも、神の力はただ人間を困惑に陥れて終わるのではありません。  窮状を乗り越えさせ「さいわいなるかな」との声を上げさせることが起こるのが、教会なのです。そして、マリアの命がけの(お言葉通りになりますように)によって、かみの言葉は肉となったのです。