司祭の言葉 11/22

王であるキリスト マタイ25章31-46節 2020/11/22

有罪の理由

 今日の王の裁きの譬えは、5人の賢い乙女と5人の愚かな乙女の譬え、タラントンの譬えに続く話となっています。用意の無かった油とは何か、土に埋めたタラントンとは何か、今日の箇所がその説明になっていると神学者たちは考えています。

 昨日の新型コロナウイルスの新規感染者は東京都で543名となりこれまでで最大となりました。全国で見ますと19日現在で感染者は122966名となり死者は1922名。戦後、これほど毎日死と向かい合うことになった年なかったと思います。人類はほとんどの病気や災害に対して克服できたと有頂天になっていました。今回のパンデミックはそのような人類への大きな試練です。
 今日の福音は私たちが神の前に立つときに、何をもって裁かれるかを示しています。
疑問の余地はありません。隣人愛です。 「この最も小さい者」とは、実際にわたしたちの目の前にいて、助けを必要としているすべての人を指しています。

 油の用意の無かった乙女たちも、タラントンを土に埋めた僕も同じです。善い行いを怠った乙女たち、善い行いを土中に埋もれさせていた僕なのです。 しかも、イエスはそれ以上のことを言います。「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と。そのため「キリスト信者が苦しむ人を助けるのは、相手のためではなく、キリストのためなの? 結局自分が最後の裁きで有利になるためなの?それが本当の愛と言えるの?」・・と疑問を呈する人がいます。決して、そうではないと思います。
 イエスのためではなく、そこにいるその人を大切にして注がれる愛、それだけで良いのです。裁きではキリスト者であるかどうかも問われていませんし、神のためにしたかどうかも問われてはいないのです。
 正しいものは、どのような助けを施したかについて意識した事もなく、貧しい人や疲れ果てた人を介して、隠れたメシアがその人に出会っているという考えもないのです。

 「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」とイエスがおっしゃったのはなぜでしょうか。
 イエスご自身が、ゴルゴタの丘への歩みの中で、彼らと同じになったのです。エルサレムの町に入ったとき、イエスは「飢え」ていましたし(マルコ11章12節参照)、十字架の上では渇くと呻き(ヨハネ19章28節)。イエスの公生活は旅の連続でした。逮捕されたイエスは一晩、大祭司の屋敷の「牢」にも入っています。十字架にかけられるとき、イエスは衣を脱がされて「裸」となり、十字架の道では何度も倒れ、弱り果て、鞭うたれ、命まで奪われまたのは病気以上の苦しい出来事でした。
 イエスの十字架への歩みは、苦しむすべての人と一つになる道だったのです。だからこそ、イエスはその小さくされた人たちを「わたしの兄弟」と呼び、彼らとご自分が一つであると語られたのです。

神の目から見て何が決定的に大切なのか、旧約聖書にも記述があります。「私が喜ぶのは愛であって生贄ではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」(ホセア6の6)