司祭の言葉 6/14

※2020年6月14日(日)A年

ご聖体の主日      司祭 鈴木 三蛙

わたしは天から下った命のかて。このパンを食べるものは永遠に生きる。
アレルヤ 春日部教会の皆様、ご聖体の祝日・・おめでとうございます。

 カトリック教会は聖堂の中心に、最後の晩餐の記念を行う主の食卓・祭壇を置き、病気の人にいつでも届けることが出来るように、聖櫃を備え、ご聖体をリザーブしています。そのしるしとして聖体ランプをともしています。それほど皆さんはご聖体に対する尊敬を持ち、旅路の糧として大切にしていますのに、その祝日を祝うことが出来ない現実がここにあります。今日はその黙想をしながら、それぞれの場で祝日を祝うことにしましょう。

 ところで、「御聖体をかんでいただいてよいのでしょうか。どのような気持ちでいただけばよいでよいでしょうか。」と質問されることがよくあります。結論からいましょう。良いのです。

 まず、まことの食べ物です。 ユダヤ人たちはイエスが、「わたしは天から下ってきたパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始めます。(ヨハネ6の41)「どうしてこの人は自分の肉をわれわれに食べさせることが出来るのか」そのとき主イエスは言われました。 「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければあなたたちのうちに命は無い。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものは、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」(6の53)そして最後の晩餐のときに御聖体を制定なさるのです。ミサの総則には噛んでよいとも悪いとも書いてありません。

 ユダヤ人にとってショックだったのは「血を飲む」と言う言葉でした。レビ記には、「イスラエルの家の者であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、血を食べる者があるならば、わたしは血を食べる者にわたしの顔を向けて、民の中から必ず彼を断つ。生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。」とありましたから。 だから、イエスの血は、新しい契約の生贄となったのです。そしてイエスはパンと葡萄酒の形で、その肉と血をわたしたちにお与えになりました。私たちの信仰はミサの中で聖別された葡萄酒は、すでにキリストの血であるとしてこれを大切に扱うのです。 ミサの総則239には次のようにある通りです。「御血をこぼしたときは水で洗い、その水をサクラリウムに流す。」 同じ理由で、カリスを拭いたプリフィカトリウムを洗った水も、同じようにサクラリウムに流す・・のです。決して下水には流しません。

   そして聖別されたパンはキリストの体、聖なる体です。だから礼拝の対象になるのです。かつては祭壇の前には聖体拝領台呼ばれるものがあり、そこに並んでひざまづき、口で聖体を受けました。いまでも聖公会の教会ではそのようなところがあり、驚いたことでした。 たしか清里の教会だったように記憶しています。今ではあまり行われなくなりましたが、キリストの体は礼拝の対象でもありますから、時には聖体賛美式が行われることもあるのです。

 クラスターを発生させることなく、ともに充分に注意しながら、心を合わせて主を賛美いたしましょう。