司祭の言葉 10/2

年間第27主日 C年

 お早うございます。いよいよ秋も深まってきました。杉戸町の外れに当たる江戸川に近い宮前では、稲刈りが済んで田んぼに積まれたもみ殻に火がつけられ、一晩中もみ殻を焼くにおいが漂っています。杉戸の無人販売所には栗が並び始めました。まもなく道路わきには柿を売る店が店を構えることでしょう。

 今日の福音を読んでふと頭に浮かんだのは、先日テレビで見た樹木を移植する映像です。 普通樹木を移植するときには根の周りを掘って根切りを行い、1年ほど放置して細かい根が生えてから、土のついた根を傷めないようにコモでくるみ、縄で縛り、移植場所に移送し、掘った穴に入れ水をやって土を入れます。でも専門家がやっても枯れることがあります。数年前兄のところでも、茶室用の花木を庭に移植しましたが、根付かずに枯れてしまいました。
 造園業者は、枯れないように移植するにはどうしたらよいか考えたのでしょうね。とんでもない方法を編み出しました。重機移植といいます。大きな8本のシャベルのついた重機で木の周りを囲み、それを差し込んで根切りを行い、土を落とすことなくそのまま掘り出し、穴を掘っておいたところにそっとおろして移植するのです。15メートルもある樹木でも移植可能とのことですから、桑の木なら簡単でしょうね。

 今日の福音は、「わたしどもの信仰を増してください」と信仰の「量」を問題にした弟子たちに対して、イエス様は「からし種」の話をしています。それは「信仰とは量や大きさの問題ではないのだ」と言うことでしょうか。信仰の力とは「信じるとその人に不思議な力が備わる」というようなものではなく、「信じて神にゆだねたときに、神が働いてくださる」ということだと言えるのではないでしょうか。だからこそすべてが可能になるのでしょう。 聖人たちの、ドンボスコやマザーテレサの神に対する信頼は絶大なものがありました。ですから大きなこともなしえたのだと思います。

 福音書の中で「神を信じる」というのは「神の存在についての考え方の問題」ではなく、「神に信頼を置いて生きるかどうか」という問題だったのです。
 似たような話はマルコとマタイにもあり・・そこでは桑の木ではなく山となっています。山に向かって海に移れという方が壮大だし、山と海ならつりあいます。桑の木ではしっくりきません。
 そこで神学者はこう考えます。

 伝承の大元では山だった話が、マルコにはそのまま伝わり、マタイはそれを書き写した。しかし他方では、長い口伝の過程でどこかでこんがらかって桑になり、それがルカに伝わったのではないかと。
 マルコでは、イエス様が呪ったイチジクの木が枯れてしまったのに驚いた弟子たちが、どうしてそういうことが可能なのかを尋ねたところ、イエス様が山をも移すほどの信仰という言葉で答えたとなっています。
 もしかすると今日の言葉は伝承段階でもイエス様がイチジクを呪った話と結びついて伝えられており、それが伝承のどこかの過程で、桑と入れ替わった可能性もあると言います。

 さらに次の奴隷の話ですが、ルカは桑の木の話の続きとして書いていますので、本来は別の話をルカがまとめたと考えられています。

 もともとは、人々の関心を集めるために、街角で祈ったり、衣の房を大きくするパリサイ人たちに対する話で、譬えの意味するところは、人々の称賛を当てにするようなパリサイ的生き方をやめて、謙虚に生きることを求めています。
 意味するところは、私たちは神の称賛に値することは何もしていないし、どのような良い業をしても、神に向かって自慢することは何もないということです。

 ルカはこれを桑の木を移す話と結び付けて書いています。とすればルカはこれを使徒によって代表される、教会の指導者に対する説教として位置付けたと思われるということです。

 教会にはいろいろな問題があります。意見の対立もよくあることです。そして一番厄介なのは皆さん善意だという事だ・・・とは、教会の役員さんなどからよく聞く話です。

 ルカが桑の木を採用したのは、教会の役員さんたちに対して、傲慢になるな、許せないという思いが桑の木のように心の中に枝葉を茂らせ、はびこっているとしても「抜け出せ、海に植われ」と信じて命ずればその通りになる。
 これこそ奇跡である。心に許しという奇跡を起こし、奉仕しなさい。・・・と言いたかったのかもしれません。

 信仰は、問題をそのまま打ち捨てることはせず、山を動かすか、人を変えるか、どちらかをします。いずれにしても偉大な奇跡というべきであると思います。

司祭の言葉 9/25

年間第26主日C年2022

 お早うございます。かなり涼しくなって過ごしやすくなってきました。
 新型コロナウイルスの新規感染者はだいぶ少なくなってきたように感じますが、新たな対応について、教区からは何も通達がありませんので、これまで通りのコロナ対策を続ける必要であると思います。

 さて今日のお話は金持ちとラザロのお話です。・・こう言っただけで皆さんはああ、あのお話だなと推測されるのではないかと思います。
 神学者によれば、タルムードにはその原型となるような話があって、イエス様がこの話をなさると、聞いていた人たちはそのタルムードの話と重ね合わせてイエス様の話を聞き、ラザロがアブラハムの懐にいるという話に、驚いたことだろうと言います。
 何故驚いたのでしょう? 分かりますか?

 まず、聖書学者エレミアスが伝えるタルムードの「裕福な徴税人バル・マヤンと貧しい律法学者」の話です。

 裕福な徴税人のマヤンが亡くなり、立派な葬儀が行われました。皆が彼を最後の休息の場所まで見送ることを望んだので、町全体の人の仕事が休みになりました。時を同じくしてある貧しい律法学者が亡くなりましたが、彼の葬儀にはだれ一人として注意を払いませんでした。このようなことを許すとは、神はそれほどまでに不公平なのでしょうか。

 その答えはこうです。バル・マヤンは敬虔さとは程遠い生き方をして来ましたが、一度だけ善い行いをし、その最中に不意に亡くなりました。彼のその善行はそれまでのいかなる悪行によっても帳消しにされないものであることが、彼の死の瞬間に確定しましたので、彼の善行は神から報いられねばなりませんでした。そしてあの立派な葬式を通してその報いを受けたのだということです。ではその彼の善行はどのようなものだったのでしょうか? かれは町の評議員たちのために宴会を準備しましたが、彼らは来ませんでした。そこで彼は食べ物が無駄にならないようにと、貧しい人々に、来て食事をとるようにと命じました。

 バル・マヤンは上流社会に受け入れられることを願って招待状を出しました。でも、全員が申し合わせたようにいろいろ言い訳をして断ったのでした。それに腹を立てたマヤンは、町中の物乞いたちを家に招き入れた・・・ということです。イエス様はこの話を王の宴会の話でも採用していることに、皆さんはお気づきになったと思います。イエス様は皆がよく知るこの話を使ってご自分の譬えを語っているのです。

 ラザロは「神は助けて下さる」という意味の名前です。日本語にしたらさしずめ、「太助」とでもいう名前になるでしょうか。

 イエス様の時代の人々は、ラザロがこのような悲惨な目にあっているのは、彼が罪を犯したか、先祖の罪の報いでそのような状況に陥ったのだと考えていました。ですからイエス様の、「この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れていかれた」という言葉には目を丸くしたと思われます。

 この話の意味するところは明白です。この金持ちは誰でしょうか。

 告白します。私なのです。今から40年以上前インドを旅行した時、ホテルの庭でビールを飲んでいました。当時、たばこは1ルピー30円ほど。ビールは8ルピー240円ほどでした。そしてチップは2ルピー。10ルピー300円はインドの日雇い労働者の一日分のお金であったと思います。それを鉄格子の扉の向こうで手を差し出しながら、しゃがみ込み見ている人たちがいました。それを眺めながらビールを飲み続ける私がいました。まさにこの話の情景だったと思います。

 次の数字がわかるでしょうか。 77億 8億 5秒に一人 420万トン 522万トン  

 77億は世界の人口 8億は十分に食べることが出来ずお腹をすかして寝る人の数 5秒に一人は飢餓が原因で命を落とす子供 420万トンは2020年国連世界食糧計画が支援した食料 522万トンは日本でまだ食べられるのに廃棄された食品の量です。

 私たちが捨てずに消費するなら、その分輸入せずに済み、それだけ食料に余裕が生まれることになります。

 マザーテレサは、現代の最大の罪は、無関心だと言います。

 金持ちも無関心でした。私も。
 今日の福音は、その無関心を捨てるようにと迫ります。 

司祭の言葉 9/18

年間第25主日C年

 このたとえ話を信者たちから聞いたルカは困惑したことでしょう。ルカに伝承を伝えた信者たちは、「イエス様はこの管理人のやり方を褒めて語ったんですよ」・・・と、驚きを持って言い添えたのではないか、と思うからです。

 今日のみ言葉を聞いた感想はいかがですか?
 どうして「主人」はこの管理人をほめたのでしょうか。

 イエス様が話の筋を「不正にまみれた富で友達を作りなさい」と持ってゆくために、普通なら怒るはずの主人に、この管理人のやり方をほめさせた・・と受け止めているのではないでしょうか。

 なんでも疑ってかかるへそ曲がりな神学者たちは、「何か、からくりというものがないか」・・と、勘ぐって考えます。
 不正を重ねる管理人を許せるのか。二重に損害を与えたのに、主人はなぜ褒めたのか。

 もしかしたら、8節aの「主人」は、管理人をやめさせようとする「主人」と別な人ではないのか・・など。

 8節aの、「主人は、この不正な管理人の抜け目ないやり方をほめた」という言葉について、二つの解釈があります。

 一つは、破局を前にした家令の「賢さ」に限定してみる見方。

 もう一つは、デレットという方が、1970年に主張した見方で、家令のしたことは、律法にのっとったやり方で、主人にも、負債者にも益をもたらし、自分の将来も確保した「利口なやり方」であったというもの・・・・です。

 それはどういうことかというと、
 律法では同胞に対して利息を取ることは禁じられていました。そのため、取引の場合は利息を含めて、借用書を書く習慣がありました。それで、油の50パトス、小麦の20コロスは利息分だったというものです。
 油の50%というのは高いと思われますが、オリーブ油の場合は混ぜ物をしやすいので、補償のため利子が高くなり、麦の場合は混ぜ物をしにくいので低いと説明されています。
 棒引きによって、負債者は得をします。主人は律法通りなので文句を言えません。そして、管理者は負債者から感謝される・・という、展開です。

 信者たちは、イエス様がこのたとえ話を語ったのは確かだが、自分たちの常識に反してこの管理人のやり方を褒めて語ったということに、釈然としない気持ちを抱きながら、それでもこのたとえ話を伝承してきました。

 それでこの話の後、8節aの後に、ルカが、解釈を加えたとみられています。

 今日のパンフレットを見ますと、いろいろ理由をつけてみても、管理人の行いを許しがたい不正とみる以上は、詭弁にしかなりません。不正を良いと言いくるめるのは、詭弁でしかないからです。
 それで、まず最初に、「この世の子らは・・」が加わり、「不正にまみれた富で友達を作りなさい・・・」という言葉が加わった・・そう聖書学者は見ています。

 田川健三という聖書学者はこのようなことを言います。

「不正な管理人」といわれていますが、たとえ話の中には「不正」という言葉は出てきませんし、主人の財産を無駄遣いしているというのも、告げ口の言葉です。
 無駄遣いもどのように無駄遣いしたのでしょうか。小作人の借金の棒引きこそ、大きな無駄遣いですが、それをイエス様は褒めているのですから、不正とみなすはずがありません。もしかしたら、この管理人はもともと主人の財産を管理することよりも、小作人の負担を軽くすることに熱心だったのかもしれません。そして小作人たちに人気があったので、仲間がねたんで告げ口をしたのかもしれません。そうすると、無駄遣いといっても、自分のために使ったのではないことになります・・・と。

 この聖書学者は、この譬えが語られた状況をこう推測します。

 多数の小作人に対して権勢をふるっている大地主の管理人が、イエス様を食事に招いたような折りにでも「どうしたら私は救われるでしょうか」尋ねたのに対して、
『こんな管理人の話もありますよ』と皮肉交じりに、「救われようなどと考えるのなら、まず小作人の借金を棒引きにしてあげなさいよ」と語ったのかも知れない・・・と。

 そして、金持ちがイエス様に、「どうしたら永遠の命に入ることが出来るでしょうか」、とたずねたら、イエス様は「貴方の財産を売り払って貧しい人に施し、私に従いなさい」とおっしゃっている箇所がありますから、ありえない話ではありません・・・と。

 この個所の前も後も律法学者やパリサイ人たちに対する警告なので、ここも、当初は律法学者やパリサイ人たち裕福なものに対して、「危機に際して、断固として行動しなさい」という勧告であったものが、聞き手がキリスト信者になり、その聴衆の変化によって、譬えの後の部分が付け加えられ、「富の正しい用い方の指針」に変化した、とみられています。

 イエス様のお話は、当時の社会の姿をとらえて、厳しい言葉で、わたしたちのあるべき姿を語っていると思います。財産は自分のためだけではなく、神のお心に沿って、使わなければならないと。

司祭の言葉 9/11

年間第24主日 ( ルカ15章1-32節)

 皆様お元気でしょうか、ホミリアをお送りいたします。
 今日のみ言葉には徴税人や罪人という言葉と、ファリサイ派の人々や律法学者たち・・という言葉が出てきます。
 徴税人や罪人はユダヤ社会の被差別民(アンタッチャブル)です。ユダヤ社会を理念と実践において支えているのは自分たちだと自負するパリサイ人や律法学者たちによって、その社会から排除されていた階層の人たちです。

 徴税人は下請けの徴税請負人で、徴税現場で「決まっているもの以上に取り立て」て、民衆から忌み嫌われていました。(ルカ3の13)市民としての当然の役職からも除外されて、法廷で証人として立つ資格も奪われていました。

 いっさいの市民権がはく奪されていたという点では、「罪人たち」も同じです。犯罪者だけではなく、品行的にいかがわしいと思われていた、高利貸し、ばくち打ち、遊女、羊飼いなども罪人とされました。

 ユダヤ人は本来遊牧民で、ダビデ王も羊飼いでしたし、旧約時代の羊飼いのイメージはよいものだったと思います。しかしイエス様の時代は違います。羊飼いは他人の土地に羊を追い込んで、他人の草を無断で食べさせたりする不届きものという考えが一般化していました。さらには、安息日にも仕事をする不敬な輩と考えられていたのです。

 他方、パリサイ人という呼び名は「分離した」を意味するヘブライ語から来ていて、自分たちは「世の汚れから分離されたもの」なのだと自負していました。そのようなかれらは、律法を守らない徴税人や罪人たちを「地の民」と軽蔑して呼び、そこには越えがたい壁がありました。
 パリサイ派の規約には、血の民には金を預けてはならず、何の証言をとってもならない。秘密を明かしてはならない。孤児の保護を頼んではならない。旅の道ずれになってはならないとあり、接触することを避けていたのです。そういう人の客となること、あるいは客とすることを禁じていたといいます。

 ですからイエス様が彼らと交わり、その客となるのを見て衝撃を受けたのです。彼らは、自分たちにとって当然と思える価値を、真っ向から否定する現実を目にしたのです。

 とくに、ユダヤ人にとって「共に食事をすること」は「神の前での大宴会」のイメージでした。出エジプト記はイスラエルの長老たちがシナイ山で「神を見て、食べ、また飲んだ」ことを、特別な恵みのしるしとして伝えています(出エジプト記24章11節)。
 地上で「共に食事をすること」は、この「神のもとでの宴とそこに集う共同体」を目に見える形で表すものと考えていましたので、自分たちだけが神の救いの食卓にあずかれると考えていたユダヤ人には、異邦人や罪人たちと食事を一緒にするなどということは、ありえないことだったのです。

 徴税人や罪人たちが白昼、同時に姿を現し、大勢でイエス様のもとに来るのを見ることも、信じられない出来事だったのです。
 そして、彼らがイエス様の話を聞こうとして集まってきた・・ということも、ありえないことが起こったと、驚きをもって受け止められたのでした。

 彼らには理解できないイエス様の行動に思わず「この人は罪びとたちを迎えて、食事まで一緒にしている」と、驚きと非難のまじりあった言葉が出てきました。

 それに答えてイエス様は、今日の譬えを語ったのです。
 そこに示されているのは、失われた羊とドラクマ銀貨の話を通じて、それらが見つかった時の喜びを例にとって、罪びとの悔い改めは、神の大いに喜びとすることなのだということでした。

 それはユダヤ人たちにとって、驚天動地の言葉でした。なぜなら、心の狭いパリサイ人たちは「罪びとが一人でも神のみ前で抹殺されるなら、天に喜びがある」とさえ語っていたからです。(バークレーのルカ福音書p222)

 ここで天と語られているのは神様のことです。感情を神に帰すべきではないとされていましたから、このような遠回しの言い方で、神をあらわしています。
 聖書学者のエレミアスは、ここは次のように訳すべきだと言い、パリサイ人たちに対するイエス様の弁明は、次のようなことだと語っています。

「このように、神は、どのような大きな罪を犯すことのなかった99人の立派な人々以上に、悔い改めた一人の罪びとのことを喜ばれるであろう」

「神の慈しみは限りなく、神の至上の喜びは赦すことにある。それゆえ、救い主としての私の使命は、サタンが奪ったものを取り上げ、迷い出たものを家に連れ帰ることである」・・と。

司祭の言葉 9/4

年間第23主日C年

 訳文をそのまま読んだのでは全く混乱してしまう箇所ですが、今日の個所はイエス様の後に従おうとするものに覚悟を問う場面です。

 「大勢の群衆が一緒についてきたが、イエスは振り向いて言われた。」・・・とあります。
イエス様について行った群衆・・・病人を癒し、奇跡を行い、パリサイ人たちを論破しエルサレムに向かうイエス様・・イエス様をメシアではないかと考えた群衆は、熱狂し、これからエルサレムに入り、ユダヤの独立のために立ち上がることを期待していました。その彼らにイエス様は冷や水をあびせます。弟子となることの難しさを気付かせることで、自分につき従うのを思いとどまらせようとした・・と聖書学者のエレミアスは言います。

 「もし誰かが私のもとに来るとしても、父、母、妻、こども、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない」
 驚きの言葉ですね。イエス様の教えと矛盾するかのように聞こえますね。
   第四 汝父母を敬うべし
   あなた自身のようにあなたの隣人を愛しなさい

 実は、近東の人たちは比較級を表すのに、しばしば対立する概念(愛と憎しみ)を用いることがあるので文字通り解釈するのではなく、
憎む=より少なく愛する・・という意味と理解されています。マタイ福音書には次のようにありますから、比べてみればわかりやすいでしょう。
   わたしよりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。
   わたしよりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。 マタイ10の37 

 そして、塔を建てようとするものと、戦いを始めようとする王のたとえ話によって、イエス様はよくよく熟慮せよ・・と説いたのです。

 わたしたちはどちらを選べばよいのかと判断に迫られることがよくあります。
選択の余地があまりない場合には、悩みぬくことも多いと思います。 

 11年前、福島原発の事故で放射能汚染が広がり、人々は避難を余儀なくされました。被災地の南相馬と浪江に行った折、「この先は汚染地につき立ち入り禁止」という看板があり、通行止めになっているところがありました。そこは牧場でした。 いまだに片付いていない車  のこされた300頭のべこたち エサを与えなければ死んでしまいます。 国は殺処分を申し渡してきました。
 飼い主はぎりぎりの決断をせまられます。 果たして被ばくした牛を飼うことに意味があるのか。 経済的には何の価値もありません。ミルクも肉も人の口に入ることはありません。 でも、役に立たなくなったからと言って、殺してしまっていいのか。飼い主にしても、収入はゼロ 300頭もいれば冬場のエサ代もばかになりません。
  「牧場の牛は原発事故の生きた証 これからも生かし続ける」

 熟慮の末、牧場主はこれからも苦しみ続けることを選択しました。協力者たちは一般社団法人を設立し、寄付を募ってきましたが、10年たって、この春法人は解散したとのことです。そして飼い主は、個人的に、有志と共に、あと10年は飼育を続けると言っています。 希望の牧場といいます。

 そこにイエス様がいたらどうするのだろうかと思います。
 殺すだろうか、生かすだろうか・・。

 塔を建てようとするものと、戦いを始めようとする王のたとえ話によって、よくよく熟慮せよ・・と説いたイエス様は、もし自分に従って来ようというのであれば、自分の持ち物一切を捨てる覚悟が必要だとおっしゃって、人々の熱狂を戒めた・・それが今日のみ言葉です。さて、私は覚悟が出来ているでしょうか。

司祭の言葉 8/28

年間第22主日(ルカ14の7-14)

 今日のたとえで、イエス様は私達に対するいましめを伝えます。神は私達の父であり、私達はみんなそこへ招かれています。でもその招きに応えるためには、私達はいつも謙虚でなければならないという事です。

 名もない人が婚宴に早めに到着、上座についたとします。ところがもっと身分の高い人が到着すると上座を占めていたその人はその席を降りるようにいわれ、非常に気の毒な状態が生じます。他方、ある人がすすんで末座についた場合には、あとでもっと上座をすすめられ、その謙遜のおかげでますます尊敬されるようになります。

 わざとらしいへりくだった姿勢はかえっていやらしいですが、謙遜は、そのようにふるまっている人が至極当然の事として行っている時には、ほんとうに美しいものです。そして、この謙遜は偉大な人々にはつねに美徳の一つでした。

 この埼玉県児玉郡保木野村付近で生まれた江戸中期の有名な国学者がいます。塙保己一です。不幸にも7才で盲目となり、12才で母と死別した悲劇の人でした。
15歳で江戸に出て、3年間盲人としての修業を積み、按摩、鍼、音曲などの修業をしましたが不器用で、いずれも上達しませんでした。しかし、弟子入りした雨富検校のもとで学才が認められ、国文学を学んだところ抜群の努力と異常な記憶力で国学丈でなく中国文学にも通じるようになります。勿論、人によんでもらって聞くのですが、25.6のころは古今の有名な本の大部分を暗記。33歳の時、それまでの暗記した書物を全部出版しようとの大願をおこします。=群書類従 正編530巻、続編1000巻

 その保己一について、次のような逸話が残っています。彼の伝記を書いた花井泰子氏の文章の抜粋です。

 麹町の平河天神は西念寺横町から半里あまり。ある朝激しい雨の中を保木野一は、お参りを済ませて帰ろうとしたときに下駄の鼻緒を切らしてしまった。境内に前川という版木屋のあることを思い出した保木野一は切れた下駄をぶら下げて店先に立った。「鼻緒が切れたので、すげてくださいませんか」保木野一が奥に向かって声をかけたとたんに鋭い声がとんできた。「なに?下駄の緒をすげろだと?生意気言うんじゃねよ、按摩のくせによ。ほれ、さしをくれてやるから、さっさと行っとくれ!」「さし?」「なんだ、さしでは気に入らねえというのかよ。さし一本でもありがてえと思え!」
小僧の投げつけたさしが、保木野一の顔に当たって落ちた。さしというのは、銅銭の穴に通す縄である。下駄の緒にしたら弱くてすぐに切れてしまうのだ。保木野一はそれを拾い、丁寧にお辞儀をして歩き出した。小僧たちの嘲り笑う声が背中に浴びせられた。怒ってはならない。腹を立ててはならない。保木野一は激しい雨の中を心経を唱えながら歩き続けた。小僧の浴びせた「按摩のくせに」という言葉は保木野一の心に深く残り、修行への道を一層はげませるものとなった。

 それから10年ほどののち、「群書類従」が完成、出版するにあたり保己一は幕府に、この「前川」を版元に推薦しました。何もしらぬ主人が保己一に推挙の礼をいうと、保己一は「私の今日あるのはあの時うけた軽蔑に発奮したのが動機であるから私の方がお礼を申しのべたい」と見えぬ目に深い喜びを浮かべて語ったといいます。

 怨みに報ゆるに怨みをもってしたら、永久に怨みはなくなりません。しかし保己一のそのすばらしい謙虚な心は怨みをさえ感謝にかえたのです。

 皆さんがよくご存じのヨゼフ物語の中にも、その謙虚さが語られています。
ひとり父に溺愛されたヨゼフは兄弟の妬みを買い、エジプトに奴隷として売られましたが、そこで王の夢を解き、宰相となりました。王の夢で示された7年間の大豊作に続く7年間の大飢饉を乗り切り、家族をエジプトに呼び寄せました。そしてヤコブが死んだのち、自分たちが報復を受け奴隷とされるのではないかと恐れる兄弟たちに、「あなた方は私に悪をたくらみましたが、神はそれを善に替え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」といい、兄たちを、安心するようにと慰めました。

 私達はそれでは、どうしたら謙虚な心を失わないでいる事ができるのでしょうか。
 事実を認める事によってです。保己一はその大願成就の一因に、軽蔑されたことによる己の発奮があったことをすなおにみとめました。そして、そのために軽蔑した人に逆に感謝の心をもったのです。
 ヨゼフもまた、自分のうちに働いた神の摂理を認め、兄たちを慰めました。

 今日のいましめをききながら私達にも、謙虚な心が与えられるように祈りましょう。

司祭の言葉 2022 1月〜5月

2022/5/29 主の昇天
2022/5/22 復活節第6主日C年
2022/5/15 復活節第5主日C年
2022/5/8 復活節第4主日(ヨハネ10章27-30節)
2022/5/1 復活節第3主日 (ヨハネ21・1-19)
2022/4/24 復活節第2主日
2022/4/17 主の復活
2022/4/10 受難の主日 (ルカ23章1-49節)
2022/4/3 四旬節第5主日
2022/3/27 四旬節第4主日
2022/3/20 四旬節第3主日 (ルカ13章1‐9節)
2022/3/13 四旬節第2主日C年(ルカ9:28~36)
2022/3/6 四旬節第1主日 (ルカ4章1-13節)
2022/2/27 年間第8主日C年
2022/2/20 年間第7主日C年
2022/2/13 年間第6主日
2022/2/6 年間第5主日C年
2022/1/30 年間第4主日C年
2022/1/23 年間第3主日C年(ルカ1章1-4節、4章14-21節)
2022/1/9 主の洗礼
2022/1/2 主の公現

司祭の言葉 8/21

年間21主日C年

 新型コロナウイルス感染予防の規制緩和で、三年ぶりに移動の規制がなくなり、今年のお盆帰省は混雑したようです。特に高速道路は、蜜を避けて車にする人が多く、関越自動車道や東北自動車道もかなり込み合いました。 料金所も、ETCを使いますと、チケットを出さなくても車はそのまま通れるようになっていますが、通過するのは一台ずつであることには変わりがありません。

 イエスは神の国に入るのに「狭い戸口から入るように」とおっしゃいます。

 神の国の入り口は狭い。しかも、私たちが太ってしまうためにその戸口はさらに狭くなります。 
 ある時、現在熊谷教会にいらっしゃる藤田薫神父様と夕食の時、片足でかがみ、またそのまま立てるか、何回出来るかという話になったことがあります。藤田神父様はいつでも5回は出来る。足には自信があるという。わたしもやってみようと言ってしゃがんでみた。ところがしゃがめないのです。お腹の厚みがじゃまになって・・・

 太るのは体だけではない・見栄、傲慢、財産、えとせとら。
 司祭志願者は、神学校に入るときカバン一つですが、司祭になった時には段ボール箱20個ほどに。そして教会を移動するときには、トラックが必要になります。
 もちろん置いて行かれても困りますが。人によって必要が違いますから。

 狭い戸口から入るように努めなさい。

 この狭い戸口とは、何を意味するのでしょうか。お屋敷の正門わきのくぐり戸、お城の大手門わきのくぐり戸、あるいは茶室のにじり口を連想します。一人ずつ、個別に招き入れられる入り口です。

 アブラハムの子孫であるユダヤ人は、自分たちは当然のこととして、神の国に入れると思っていました。でも神の国は団体客としての招きではないのです。

同じことはキリスト者にも言えます。キリスト者だからと言って救いが確実なのではありません。団体客専用の入り口はないのです。

 「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」という言葉は、非常に多くの人がそこに受け入れられる感じであると思います。
 でも「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」という言葉は、「先だと思っている人が神の国では後になり、後だと思っていた人が、神の選びでは先になる」ということです。アブラハムの子孫である自分たちに優先権があると思っていた人たちは、驚いたことだろうと思います。

 マタイ福音書には「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」7の21との言葉があります。
 そして25章には次のような言葉があるのです。
 「それから王は左側にいる人たちにも言う『呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその手下たちのために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いていたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに訪ねてくれなかったからだ。』」25の41-43
 「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」25の45

 記されている神の裁き・判断の基準は明白であると思います。

 ウイリアムバークレーが紹介しているお話があります。
 昔あるところに、贅沢の限りを尽くし、あらゆる尊敬を受けていた一人の女がいた。その女が死んで天国につくと、彼女をその割り当ての家に案内するために、一人の天使が送られた。二人は素晴らしい邸宅をいくつも通り越していった。その女は、それを通り過ごすたびに、これが私に与えられた邸宅に違いない、と考えた。天国の大通りを過ぎて郊外に近い場末に来ると、そこはずっとずっと小さな家が点点としていた。とうとう一番端まで来ると、そこに、山小屋よりもまだ小さい一軒の家があった。「あれがあなたの家です」とガイドの天使が言った。「なんですって、あれがですか」と女は思わず叫んだ。「あんな家には住めませんよ」。「お気の毒ですが」と天使が言った。「でも、あなたが送ってきたもので建てられるのは、これでせいいっぱいなんです」。

 狭き門から入るとは、地上にではなく天に宝を積むこと、主のみ心を行うこと・・・ではないでしょうか。

司祭の言葉 8/14

年間第20主日C年

 「私が来たのは地上に火を投ずるためである」この言葉に皆さんは何を連想しますか?
 先週のみ言葉は「あなた方も用意していなさい」でした。直接的にはエルサレム滅亡の予言に絡むものでした。今日の福音はそのあとに続くものです。神殿は焼かれ崩壊しましたので、戦火との見方も考えられます。

 77年前、人類史上初めて人類の上に原子爆弾が投下されました。一瞬にして中心部は4000度の高熱となり、爆心地から1.2キロ以内で熱線の直射を受けた人は皮膚が焼き尽くされ、3.5キロ離れた人も素肌の露出部分はやけどを負いました。
 1961年10月30日北極海の孤島で行われたロシアのツアーリボンバの映像の機密が解除されました。その公開された爆発の映像は広島長崎の1500倍というものでした。
 2021年1月時点、保有される核弾頭は13,080発 90%を米露が保有 ストックホルム平和研究所は使用されるリスクは過去最大と発表しています。
 今核戦争が起これば地球全体が火の海となり、そのあとに来るのは小氷河期だと言われています。その時果たして地球上の生命は、生き残ることが出来るのでしょうか。
 明日まで平和旬間です。今日のミサの中で平和のために祈りましょう。

 しかしながら、イエス様の「その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか」というこの言葉から見ると、この火は、別な火に思えます。

 旧約聖書では 火は神がそこにおられることを示すしるしでした。 モーセの召し出しでは、神は燃える芝の中から語られていますし、シナイ山では、神は燃える火の中からモーセに十戒を授けています。

 ルカ3章16節には、洗礼者ヨハネのこういう言葉がありました。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。

 「火」は、人に罪のゆるしをもたらし、神との結びつきを確かにする聖霊の火、信仰の火でもあります。

 今日のみ言葉の前にイエス様は空の鳥、野の花の話をしておられます。そして「恐れるな、ただ神の国を求めなさい」と言っておられます。
 だとしたら、イエス様が燃えていたらと願った「火」は、神の国に対する熱い思いであると考えることが出来ます。
 そのためには決断も迫られます。何にもまして神を求める・・という決断です。

 紀元64年に「ローマの大火」が起こりました。小説クオヴァディスでは、ネロ皇帝が放火したとのうわさが広がり、これを打ち消すためにキリスト者の放火という噂を立て、迫害が始まったとされています。ルカがこの福音を書いているとき、すでにキリスト者への迫害は始まっていましたので、ルカ自身は終末の時が近づいていると感じていたことでしょう。ルカの教会の人々は、イエス様によって始まっている神の国を受け入れるか、それを拒否するか、という決断を迫られていました。
 そこでは表面的な平穏さを保つだけではすまないのです。そしてそれは現実となりました。ローマ人がキリスト教を憎んだ理由は、そこにあったといいます。キリスト教は家庭を二つに引き裂いたからです。キリストとこれまでの友人知己とどちらを多く愛するか。イエス様の到来は、わたしたちの中にも分裂や対立の厳しい現実を引き起こすかもしれません。
 用心していましょう。そして備えましょう。

司祭の言葉 8/7

年間第19主日 (ルカ12章32-48節)

 今日のイエス様のメッセージは「あなたがたも用意していなさい」という言葉です。イエス様は、当時話題になっていた事件を取り上げ、「あなた方は、最近強盗に這入られたあの家の主人のように、驚かされないように注意しなさい」と、ご自身が予知なさった大惨事の警告をなさったのだ・・・と神学者は言います。

 イエス様の時代、ユダヤ人はローマの圧政に苦しみながらも、のほほんとした毎日を送っていました。そのユダヤ人を前にしてイエス様は福音を述べ伝えながら、強い言葉で、迫り来る苦難の日に備えるように、たとえをもって語りかけたのです。 今日の福音はその語りかけの場面です。

 西暦66年、ユダヤ人はローマ帝国に反乱を起こしました。(ユダヤ戦争)そして、4年後の70年、ローマ軍はエルサレムの大部分と神殿を占領し、破壊しました。この時、多くのユダヤ人が殺され、また奴隷となりましたが、予知なさった大惨事とは、この「エルサレムの滅亡と神殿の崩壊」と言う出来事です。

 ルカによる福音書では21章で語られるのですが、マタイによる福音書ではでは泥棒の例えの前に、エルサレム滅亡の予言が語られています。

 イエス様はその危機的状況に、人々の目を開かせようとします。盗賊のように、予期せぬ洪水のように、天変地異のように、過酷な恐ろしいことが起きようとしている。準備しなさい、もうすぐ手遅れになる・・・と。

 ルカは伝えられてきたイエスの語録集(Q資料)を紐解きながら、そこに自分の体験を重ね合わせて福音を編集しています。 ルカがペンをとったとき、エルサレムの滅亡は現実となっていましたが、まだキリストの再臨の時は来ていませんでした。でも近いだろうと思われていました。そこで、イエス様のお話を現実の共同体に当てはめて説明しました。
 ペトロの「この話はみんなのためですか、それとも私たちのためですか」と言う質問に、イエス様が、「忠実で賢い管理人のたとえ」を語ったところが、「あなた方に対して語ったのだ」というイエス様の答えになっています。

 イエス様が21章で語る「終末の徴」「時のしるし」を私達はどこに見ればよいのでしょうか。
 新型コロナウイルスのパンデミック、ロシアによるウクライナ侵攻、WHOが警告を発しているサル痘、地球温暖化、異常気象、成層圏のオゾン層の破壊、極地の氷の減少、過剰な開墾や伐採、放牧による砂漠化など、「時のしるし」は沢山あります。

 私たちはあまりにもぬるま湯のような今の現状になれてしまっています。

 イエス様の今日の言葉は予言です。エルサレムの神殿は崩壊しました。ルカはそのことを知っていました。でも、世の終わりではありませんでした。
 しかし21世紀の今こそ、しっかりと受け止めなければなりません。
 このホミリアを書きながら、慄いています。このままでは間もなく地球の終わりが来るのではないかと。今日、明日、それが来てもおかしくない所に私たちは立っています。
 世界の人口の8人に1人が飢えているのに、食用に生産された食料の3分の1が捨てられています。日本のテレビでは食レポ番組や食べ放題、大食いの番組があふれています。そして賞味期限の過ぎた食べ物の大量廃棄。フードロス。
 そしてこのフードロスが与える影響の一つとして、地球環境への負荷が挙げられています。世界の温室効果ガスの8~10%がフードロスによって排出されているといわれています。どこか狂っているとしか言い様がありません。

 終末時計・・という言葉を聞いたことがあると思いますが、どんな時計ですか?

 アメリカ合衆国の雑誌「原子力科学者会報」の表紙絵として使われている時計で、時計の45分から正時までの部分を切り出した絵で表されています。
 核戦争などによる人類の絶滅を『午前0時』になぞらえ、その終末までの時間を「0時まであと何分」という形で象徴的に示す時計です。

 75年前の1947年に発表され残り7分から始まりましたが、冷戦終結後は17分前まで戻されました。しかしここ3年は100秒前のままです。2022年現在は1月21日に発表され、依然として「100秒前」となっています。終末の時は迫っているという認識です。

 昨日から日本の教会は、平和のために力を尽くす10日間に入りました。教区としての特別な取り組みは聞いていませんが、私たちは今日の福音を通して、主ご自身から直接、すみやかに、平和について考え、それを行動に移すことを求められていると思います。